2024年1月7日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
音声サイトへ行くには ここをクリック。
聞いていただけるとうれしいです。
~~~~~~~~~~
哀歌 3章22~24節
ローマ 5章5~11節
説教 神の愛の現れ
~~~~~~~~~~
以下、原稿です。
~~~~~~~~~~
0.導入
→このロマ書は、信仰によって義とされるという教え、信仰義認の教えをテーマとしています。
信仰によって義とされた人の救いは確かであると伝えます。
最後の審判を恐れる必要はありません。
この救いの確かさを語るのがロマ書の8章までの内容です。
→もし、義とされた人が罪を犯したらどうなるの、と聞かれたら、
私は義とされたことは取り消されませんと答えます。
義とするという言葉は法廷用語で、裁判での判決を示します。
裁判で無罪と宣告されたら、それは変更されません。
それゆえ、義とされたキリスト者が罪を犯しても、
義とされたことは取り消されません。
こういうと、本当かな、って思われるかもしれません。
義とされたキリスト者が罪を犯してもなお義とされたままというのは、おかしいんじゃない、と思う人もいるかもしれません。
罪を犯した者を、キリストを信じるゆえに義とする神の恵みは、
キリスト者を聖なる者として歩ませる恵みでもあるのです。
キリスト者が罪を犯すのは失敗ですが、
神の恵みは、キリスト者をその失敗を乗り越えて、
キリストに従う者へと成長させる恵みです。
そのことはロマ書6章以降に書かれています。
1.救いをもたらす神の愛
→パウロは3章21節以降で、キリストを信じる人は義とされると教えました。
キリストは罪を贖ういけにえとなってくださいました。
キリストは十字架の上で、人類の犯す罪すべてに対する神の怒りを、罪に対する罰を、その身に受けられました。
それゆえキリストを信じる者は、神の怒りを受けることがなく、
神の前に義とされる、これが聖書の教えです。
キリスト教の教理で、基本的で大切な教えです。
→つまり3章21節以降では、
私たちはどのようにして義とされるのか、
その救いの方法が明らかにされました。
キリストを罪の贖いのためのいけにえとすることによって
神は私たちを救おうとされました。
神はいかにして私たちを救うのか、
その方法が語られたのです。
→今日の聖書の、5章6節以降では、
そもそも神はなぜ人を救おうとされたのか、
神の動機が語られます。
つまり人間に対する神の愛が、人間を救う理由です。
神は人間を愛する愛の神であるので、人間を救うのだと
パウロは語ります。
→旧約聖書の創世記に神は人間を造られたことが書かれています。
人間は神に似せて、神の形にかたどって造られました。
するとそこに男と女がいたと書かれています。
男と女は、互いに愛し合って生きる者として造られました。
それは言い換えると、神と人間は、互いに愛し合うものであることを示しています。
人は神との交わりに生きるように造られたのです。
2.救おうとした人間とは
→神が救おうとした人間はどのような存在なのでしょうか。6節にこうあります。
5:6
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
→私たちが「まだ弱かった」とあります。
この弱さのために人は罪を犯してしまいます。
意志が弱いとか、誘惑に弱いとか、信じる思いの弱さとか、
色々な弱さがあります。
キリスト者なら、自分がなぜ罪を犯してしまうのか、
その理由を考えるなら、
そこに自分の弱さを見出すことができるのではないでしょうか。
→キリストは不信心な者のために死なれたとあります。
不信心な者、それは神を畏れず、神を敬わない人のことです。
自分の思いを優先して生きる人です。
神を信じない人は、神などいないと語ります。
そして罪を犯しています。
人間は弱さを持つ一方、神を敬わない不信心を持っています。
聖書に登場するユダヤ人は、神を知っていますが、
自分は立派に神の教えを守っていると誇りますが、
表面的にしか守っておらず、
本当の意味で神の教えを守っていません。
神を敬わず、自分を誇っています。
こんな人間、不信心な私たちのためにキリストは死んで下さいました。
→神との交わりに生きるように造られた人間、
神を愛して生きるように造られた人間は、
その目的とは逆の生き方をしました。
神をないがしろにし、自分中心に生きているのです。
そんな人間を救おうとして、神はキリストを十字架の上で死ぬようにしたのです。
→7節で、人は誰かのために自分の命を犠牲にすることができるか、と問いかけます。
正しい人のために自分の命を犠牲にする人はいない。
善人のためなら、自分の命を犠牲にする人はいるかも知れない。
では、罪人のために命を犠牲にする人はいるだろうかとパウロは問いかけます。
罪人、悪人のために自分の命を犠牲にする人はいません。
「あなたは誰のために自分の命を犠牲にすることができますか」と質問されたら、
私たちはどう答えるでしょうか。
確かなことは、罪を犯した人のために自分の命を犠牲にする人はいないということです。
→しかし、キリストは罪人のために死んでくださいました。
そしてここに神の愛が現れたとパウロは言います。
神の愛が、人間を救おうとされたのです。
その神の愛は、御子キリストを犠牲にしてまでも人間を救おうとする愛です。
私たちはわが子を犠牲にしてまで誰かを救おうとするでしょうか。
他者のいのちより、わが子の命の方がはるかに尊いとだれもが考えます。
しかし神は人間のために、わが子、御子キリストを犠牲にしました。
人間の愛と神の愛は明らかに違います。
神の愛が私たちに示されたとあります。
それでは神の愛とはどのような愛なのでしょうか。
3.どのように神の愛は示されたのか
→そこで神の愛を具体的に考えてみたいのです。
神の愛ってどのような愛なのか。
→人間的な言い方をすると、
神の愛には、顧みるに値しない人間を顧みるという面があると私は考えます。
神に背を向けて生きており、罪を犯しているのが人間です。
人間は神の顧みに値しません。
そうではないでしょうか。
→私たち人間は、自分にとって価値ある人を愛します。
私たち人間は、自分にとって価値ある人を大切にします。
自分が愛し、大切にする人を顧みます。
顧みに対する人を顧みる、
顧みに値しない人は顧みない、それが生身の人間です。
→しかし神の愛は、顧みに値しない人間を顧みる愛です。
たとえばイエスの弟子にペトロがいます。
彼はイエスのためなら、自分の命を捨てますと断言しました。
イエスは、あなたは三度、私を裏切るだろうと予告しました。
ペトロは、そんなことは絶対にしないと断言しました。
でも彼は自分の身の危険を覚え、イエスを三度裏切りました。
私たちは自分を裏切る人を愛することができるでしょうか。
自分を裏切る人、それは顧みに値しない人と言えます。
イエスは、ペトロを顧み、彼を赦しました。
そればかりでなくペトロを、福音を伝える者として派遣しました。
→この顧みる愛とはどのような愛なのでしょうか。
それを考えるために放蕩息子の物語を思い出してください。
ある人に二人の息子がいました。
父が生きているのに、下の息子は自分が相続する財産を今くださいと父に願います。
父が与えると彼は、それをお金に換え、家を出ます。
お金がたっぷりあるので、彼は好き勝手な生活をします。
やがてその金を全部使い果たし、生きるのに行き詰まり、
父のもとに帰ってきます。
あなたが父なら、この息子にどう接するでしょうか。
→顧みに値しない者を愛する愛とは、
自分の喜びよりも相手の喜びを優先する愛です。
生活に行き詰まって帰ってきた息子は、
「息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人の一人としてください」と父に頼みました。
彼は憔悴しきって、合わせる顔を持たず、
惨めな思いがいっぱいの心で帰ってきたと思います。
驚いたことに父は、彼を息子として迎え、
自分の息子としてふさわしい装いをさせました。
息子が喜ぶことを第一に考える父の愛があります。
顧みに値しない者を愛する愛とは、
自分の喜びよりも相手の喜びを優先する愛です。
→顧みに値しない者を愛する愛とは、
自分のプライドを捨てる愛です。
この父親は、帰ってきた息子に、
お前に譲った財産をどうしたのか、と聞きませんでした。
全部無駄遣いしたことを怒ることをしませんでした。
息子の謝罪を求めませんでした。
この父は、父としてのプライドを捨てていたと思います。
もしプライドがあれば、「お前、一言、言うことがあるのではないか」と財産を無駄遣いしたことを責めると思います。
自分のプライドを捨てる愛、
自分のプライドを捨てて、相手を愛する愛、
それが顧みに値しない者を愛する愛です。
→顧みに値しない者を愛する愛とは、
相手が変わるのを忍耐して待つ愛です。
放蕩息子の父は、家を出ていく息子をとめませんでした。
この父は、息子が変わるのを忍耐して待つのです。
息子は家を出て、大切な財産をむだにするかもしれません。
その息子が変わるのを忍耐して待つのです。
やがて生活に行き詰まった息子が帰ってきます。
遠くに息子の姿を見つけた父は走り寄り、彼を抱きます。
帰ってきた息子を喜び迎えます。
この息子の新しい歩みがこれから始まります。
彼が父と共にいることを喜び、
父のもとで、仕事をする人間になります。
父はこのことを忍耐強く待っていました。
顧みに値しない人が顧みに値する人になるのを忍耐して待つ、
それが顧みに値しない人を愛する愛です。
→さらに言えば、顧みに値しない人を愛する愛は、
その人を赦す愛であり、その人を信じる愛です。
→さらに言えば、神にとって顧みに値しない人は
一人としていません。
神は誰をも顧みてくださいます。
人間的に言うなら、顧みに値しない人をも神は愛してくださいます。
このような神の愛が、キリストの死において現れたのです。
4.さらなる神の愛
→9節。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
→「なおさら」とあります。
私たちはキリストの血によって、義とされました。
今、神の前に正しい者とされています。
それなら、神の怒り、つまり最後の審判において罪に対してくだされる神の怒りから救われるのは、当たり前でしょとパウロは語ります。
私たちは罪を犯してきたのに義とされたのです。
今や私たちは神の前に正しい者なのです。
罪を犯してきたのに罪赦され、神の怒りを受けなくて済んだのなら、
最後の審判において神の怒りから救われるのはなおさらのことだとパウロは語ります。
→パウロは、さらにもう一回、なおさらのことだと言います。
かつて私たちが罪を犯し、神に敵対していたとき、
キリストの死によって私たちは救われました。
神との和解を与えられました。
→それなら、神との和解を受けている今は、
御子の命によって救われるのはなおさらのことだと言います。
御子の死と御子の命が対照的に語られています。
御子の死によって私たちは義とされました。
神との和解を与えられました。
復活した御子は、今も私たちと共におられます。
その御子の命、それが私たちを生かします。
どのように生かすのか、6章以降で語られます。
私たちは罪に打ち勝って生きる者となります。
それなら、私たちが救われるのは、
なおさら確かでしょうというわけです。
→イエス・キリストを信じるゆえに、
神は私たちを義と認めてくださいます。
神の前に私たちは正しい人間です。
最後の裁きにおいて、
私たちが救われることは確かです。
→このように私たちを愛してくださる神がおられる、
それが福音です。よろこびの知らせです。
それゆえ、
私たちはこのように私たちを愛してくださる、
神さまをイエス・キリストによって誇りとします。