クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

受難節黙想(1)フィリピ 2:1~11

 キリストは御子でありつつ、人となり、十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。キリストの苦悩を思う受難節です。

 フィリピの信徒への手紙の2章1~11節でパウロは、信仰者はへりくだり、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、他人のことにも注意を払うように命じます。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と「へりくだり」の模範をキリスト・イエスに見ようとします。

2:6~7 
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 キリストは神であるのに、そのことに固執しませんでした。固執せず、人間となり、僕(しもべ)となったとあります。神として世に現れるなら、人々は畏れ敬います。しかし人間となれば、人々は敬うとは限りません。実際にはキリストは十字架の上で殺されてしまいます。

 神であることに固執しなかった、これはキリストが神としてのプライドを捨てたことを意味します。へりくだるとは、自分を低い位置におくことです。プライドは人がへりくだることを阻止します。プライドを持つ人がへりくだることはむずかしいです。なぜそこまでしなくてはならないのかと考えるからです。

 プライドは、自分を他者より上におこうとします。互いに相手を自分より優れた者とするなんて、理解できません。少しでも自分が優れていると思いたがるのがプライドです。このプライドを捨てる模範としてパウロはキリストを紹介します。キリストは神であるのに人間となった。さらには僕(しもべ)の身分にさえなった、と。

 神であるのにキリストはなぜ、人間となったのでしょうか。それは人を救うためです。しかも人間を罪から救うために十字架の死を遂げるのです。キリストはいつ人間となり、十字架の死を遂げることを受け入れたのでしょうか。

 神の御子は人となりました。その名はイエスです。そのイエスは、救い主、メシアであると私たちは信じます。メシアをギリシャ語でキリストといいます。神の御子は救い主(キリスト)として人となることを決意しました。それはいつなのでしょうか。

エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 この神の決断を考える時、神は天地創造の前に人を救うために御子をキリストとして世に送ることを決めておられたことになります。キリスト教の神観は、三位一体の神を信じます。父なる神、子なる神、聖霊なる神です。それぞれの神は、人格を持つ神です。

 ここからは私の想像です。父なる神は子なる神つまり御子に、人となり、人を救ってほしい、最後には死ぬことになるが、と提案しました。神の人類救済計画において、父なる神は御子に働きを期待するのです。

 この提案を御子は受け入れました。なぜ受け入れたのでしょうか。

散歩道で