昨日から受難節に入りました。キリストの苦しみを覚える時とされています。私は、キリストの復活の方に心が向きます。老いた信仰者としては、キリストの苦難より、キリストの復活、そして終わりの日の自分の復活に関心が向きます。
私は今、死を越える希望を語る聖句の一覧表を作っています。死により私たちは地上の生涯の終わりを迎えます。キリスト者は御国に迎えられるとの希望を与えられていますが、その希望をより確かにしたいとの思いで、一覧表を作っています。ほぼ作り終えたところですが、一番心に残るのは、ヨハネ福音書にあるイエスの言葉です。
イエスがラザロを復活させる物語にある言葉です。イエスがラザロを訪ねた時、ラザロはすでに死んでいました。ラザロの姉のマルタは、「あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と語ります。主イエスの来るのが遅かったと落胆しています。するとイエスは彼女に語ります。
ヨハネ 11:25~26
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
マルタは、「弟はあなたを信じていました。でも死んでしまいました」と心の中で言いたかったのではないかと推測します。彼女は、「信じる」とも「信じない」とも言わず、「あなたが世に来られるメシアであると信じています」と答えました。
「このことを信じるか」というイエスの問いが、鋭く私の心に突き刺さってきます。答えは三種類です。「信じる、信じない、わからない」。私は瞬時に「信じます」とは言わないで、一瞬、間をおいてから「信じます」と答えるなと思いました。
一覧表に記載した聖句を一つずつ味わいながら老いの時期を過ごしたいと思っています。それが終わった時、イエスの問いにどう答えるのか、楽しみにしたいと思います。
春の兆しと共に復活したかのように花を咲かせる福寿草。