マルコ福音書のディボーションは13章まで進みました。13章で主イエスは、世の終わりについて語られます。世の終わりが来るまでに起きることを色々語り、世界が創造されたとき以来、起きたことのないような苦難が地上に起こり、その後、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る、と語られました。主イエスは世の終わりに、今一度この世界においでになると聖書は語ります。
現代人である私は最初、聖書が語る終末の事柄つまりキリストの再臨、最後の審判などどうしたら信じることができるのかと悩みました。自分が信じることができることは信じ、信じられないことは信じないというのは、聖書が告げる信仰ではありません。そして信じたいと思っても、すぐに信じることができるわけではありません。ある時パウロが次のように書いていることに気づきました。
ローマ 6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
パウロは、「信じなさい」と語らず、「考えなさい」と述べています。そうか、と思いました。キリストの再臨を信じることができなくても、キリストの再臨があると考え、信仰者として生きていけばよいと思いました。そうしているうちに信じることができるようになるのではないかと考えるわけです。
もう一つ、漠然と終末の到来を考えるのではなく、その時何が起きるのかを具体的に知ることは終末を受け入れやすくすると考えました。最後の審判については、私はイエス・キリストを信じることによって義とされているので、この審判を恐れる必要はないことを知ります。
終わりの日、すでに亡くなったキリスト者は神の国に迎えられるために、復活します。その時、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(コリント一15:52)。フィリピの信徒への手紙にはこう書かれています。
フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
キリスト者である私たちは、キリストの栄光あるからだと同じ形に変えられるとあります。それなら、今自分はどう生きたらよいのか、と考えます。さらにヨハネ一3章。
ヨハネ一 3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
キリストの再臨がある、終末が来ると考える私は、御子に似た者となることを志し、自分を清め、再臨、終末に備えたいと考えています。