クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第三段階(10)永遠の命に生きる

 キリスト者は永遠の命を受け取ることが約束されています。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 キリスト者は死んでも神の国に迎えられ、死んで終わることはありません。神の国で生きることになります。永遠の命とは、死んだ後の命であると考える人もいると思います。しかし聖書はキリスト者は永遠の命を得ていると教えています。永遠の命について主イエスはこう語っています。

ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 キリスト者は死んだ後に永遠の命に生きるのではなく、キリストを信じたら永遠の命を与えられていると主イエスは語ります。キリスト者は、キリストを信じたときに永遠の命を与えられ、また肉体の死を越えて、なお生きることになります。

ヨハネ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・・

 永遠の命とは何なのでしょうか。

 私たちは命を与えられてこの世に誕生します。この場合の命は生物としての命です。命があることは心臓が動いていることで分かります。心臓が動かなくなれば命は失われ死んでしまいます。命があるということは、そこに生命活動があることを意味します。私たちは毎日生きて生活をしています。これは生命活動です。ですから永遠の命の場合にも、そこに生命活動があるはずです。

 キリストを信じていない人とキリストを信じる人の違いは何でしょうか。永遠の命を持っている人とそうでない人との違いは何でしょうか。特に目に見える違いは何でしょうか。

 この違いを生み出すもの、それが永遠の命と言ってよいと思います。永遠の命を与えられていることは生き方となって現れ、それがキリスト者でない人たちとの違いを生み出しています。違いの典型は礼拝です。キリスト者は日曜日に神を礼拝します。なぜ礼拝するのでしょうか。礼拝は、永遠の命の生命活動と言うことができます。

 あるいは聖書を読み、神の言葉と信じて、神の言葉に従おうとします。あるいは神に祈ります。これらも永遠の命の生命活動と考えることができます。

 私たちはキリスト者になったら、キリスト者として行動すべきと考えて、礼拝に出席し、聖書を読み、祈るかもしれません。だから信仰生活は自分の意志で行っていると思われるかもしれません。永遠の命に生かされているとは思わないかもしれません。確かにそういう面があります。

 しかし永遠の命を与えられたので信仰生活が始まったことも確かです。永遠の命に活かされているからこそ、信仰生活が続きます。キリスト者の努力だけで、信仰生活が続くのでしょうか。永遠の命に生かされているからこそ、信仰生活は続いているのではないでしょうか。

 私には永遠の命が与えられている、私は永遠の命に生かされている!

ボケの花 馬見丘陵公園