クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(4)神の身分を捨てる御子の愛

フィリピ 2:6~7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 

 御子は御父の提案を受け入れ、人となり地上の歩みをすることを受け入れます。神であるのに神の身分に固執せず、人となるのです。

 もし私がアリになってアリの世界に行き、アリの救い主となるためにアリとして死ぬように神から提案されたら、私は即座に断ります。第一に人間としてのプライドがアリになることを許しません。第二にアリのために自分の命を捨てる理由を見出せません。私にとってアリが本当に大切な存在なら、アリのために自分を犠牲にすることができるかもしれませんが、私にとってアリは、ただの虫に過ぎません。アリのために自分を犠牲にするなんて考えられません。真っ平御免です。

 御子は、神であるのに人となります。神としてのプライドを捨てました。神にプライドがあるのかという問いがありますが、旧約聖書ではイスラエルの民が神の御名を汚すことを神は嫌っています。イスラエルの民が神の名を崇めること、神の栄光を現すことを神は求められます。神にもプライドはあると考えてよいと思います。人々から崇められてこそ、神なのです。

 御子が人となることは、人々から自分が神と認められることを求めないことを意味します。人々から尊敬されず、嫌われ、嘲(あざけ)られ、侮辱される可能性を認めることを意味します。さらに殺されるのです。

 それをも受け入れて御子が人となるということは、御子が人間を愛していることを意味しています。人間の救いを願っていることを意味します。ですからそのために自分を犠牲にしてもよいとさえ考えていることを意味します。さらに御子は御父を愛し、御父に従順です。

 人となったイエスは、捕らえられて裁判を受けるときから十字架の死に至るまで、人々から嘲られ侮辱されても、怒ることなくされるがままでした。御子はプライドはこだわりません。そこまで自分を低くしました。神である方が人間に侮辱され、けなされ、殺されるところまで自分を低くしました。それはなぜかと言えば、御子は人間を愛しているからです。そして人間の救いを願っているからです。

使徒パウロは興味深いことを書いています。

エフェソ 3:18~19
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するようにとパウロは祈っています。キリストの愛の途方もない豊かさを理解するようにと祈っています。私も理解したいと思って、思いめぐらしています。

黄梅(オウバイ) 散歩道