クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

説教 主イエスの愛

 昨日、県内にある教会で説教奉仕しました。
音声サイトへ行くには ここをクリック
聞いていただけるとうれしいです。


以下は原稿です。

旧約聖書  イザヤ 46:10
新約聖書  マルコ 15:33~41
説教 主イエスの愛

1.導入

→ヨハネ3:16~17を読みます。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

→天の父なる神は御子を救い主としてこの世に遣わしたことがわかります。
御子は、世の人々を救うという父なる神のご意志を受け入れ、
世に遣わされたことが分かります。
そこで私は思います。
御子はどんな気持ちで
救い主として世に遣わすという
父なる神のご意志を受け入れたのかと。

2.神の身分を捨てる

→御子は神です。子なる神です。
父なる神が御子に言います。
「御子よ、わたしはあなたを救い主として人間の世に遣わす。
あなたは人間となり、救い主としての働きをして欲しい」。
父なる神は御子に、
<人間になって救い主としての働き>をして欲しいと言われたのです。
神である方が人間になるのです。

→そこで私はふと空想します。
もし神さまが私に「私はあなたを救い主として遣わす。
私が遣わすのはアリの世界に、
アリの救い主としてあなたを遣わす」。
アリというのは地面を這いつくばって歩く、虫のアリです。
アリは地面の下に巣を作り、アリの世界をつくっています。
私がアリになり、アリの世界に行くというのです。
いくら救い主になると言われても、受け入れることはできません。
私は人間としての人生を送りたいです。
私はこの神さまの提案を受け入れることはできません。

→御子は神であるのに、人間となって、人間の救い主となるようにと神は言うのです。
そして御子は分かりました、と
父なる神の提案を受け入れたのだと想像します。

3.救い主として死ぬ

→すると父なる神はさらに言うのです。
「実は、あなたは救い主として死ぬことになる。
いや殺されて死ぬことになる。
しかし、その死によって人間を救うことになる」。
御子はどう思うのでしょうか。

→神さまが私に救い主としてアリになり、
アリの世界に行って欲しいと言われても、私は気が進みません。
神さまがさらに「あなたはアリになり、アリを救うために死ぬことになるのだ」と言われたら、
ためらうことなく、私は「いやです」と答えると思います。
アリになるのさえ耐えがたいのにアリとして死んでしまうなんて、やはり耐えがたいです。

→人間になるだけではなく、殺されると聞いて、
御子は父なる神の提案をどう思われたでしょうか。
御子が神の提案を受け入れて世に遣わされるとするなら、
御子はどんな気持ちで、この提案を受け入れたのかと考えます。
私はアリになってアリとして死ぬことには耐えがたいです。
私には、アリのために自分の命をさしだすほど、
アリに対する愛はありません。
そして心の中には、アリより人間のほうがずっと価値ある存在であるという思いがあり、
アリのために自分の命を犠牲にするなんて、容認できません。
人間としてのプライドがあるからです。

→父なる神はご自身に似せて人間を造られました。
それは神が人間を特別に愛していることを意味しています。
神は人間を愛し、それゆえ人間を救いたいと考え、
御子を送ることにしました。
御子は神であるのに、人間になることを受け入れます。
さらに人間を救う救い主となりますが、最後は死ぬのです。
そのことも御子は受け入れたのです。

→使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙でこう書いています。

2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。

→御子はなぜ、
人間となり救い主として死ぬことを受け入れたのでしょうか。
答え:御子は父なる神を愛し、父なる神の提案を受け入れられたと考えます。
また御子は、父なる神と同じように、人間を愛されたと考えます。
だから人間の救いのために神であるのに人となり、さらに死ぬことを受け入れられたと考えます。

4.嘲りの中の死

→時満ちて御子は、イエスとしてこの世に生まれました。
そしてイエスは神の国の福音を宣べ伝え、救い主として活動をします。
しかし安息日に病気を癒やすなどの働きのために
宗教指導者であるファリサイ派の人たち、律法学者たちから、
神の戒めを破っていると非難されました。
そればかりでなく、彼らはイエスを殺そうとたくらみます。

→イエスは自分が捕らえられ苦しみを受けて死ぬことをご存じで、
弟子たちに三度そのことを話されました。
御自分が救い主としておいでになりましたが、
ご自分の死を通して救いが実現することを知っていました。

→イエスは捕らえられ裁判を受け、死刑を宣告され、
十字架刑を宣告されます。
十字架刑を宣告されたときは、鞭で打たれました。
刑を執行するためにイエスはローマの兵士に引き渡されました。
すると兵士たちは、イエスに対して何をしたのでしょうか。

マルコ 15:17~19
イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。

→ローマ兵はイエスにひどい屈辱を加えたのです。
十字架にかけられたときもイエスはひどい嘲りを受けました。

マルコ 15:29~
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

→イエスはこのように嘲りを受けながら屈辱を味わいました。
「いくら何でもこんな屈辱は耐えられない」と言い、
十字架から降りることはしませんでした。
イエスは何で、このような屈辱を耐えられたのでしょうか。

→人間というのは、自分が侮辱されることをひどく嫌います。
屈辱を受ければ、仕返しをして恨みを晴らしたいと考えます。
すぐに怒りを発して仕返しをするかもしれません。
それができないときは、仕返しをする折を狙う、それが人間です。
プライドが傷つけられることは人間にとって辛い体験です。
しかしイエスは屈辱を忍耐されました。
神である方が人間を救うために人となったのに、
人々は受け入れず、それどころか嘲るのです。
しかしイエスは自分に向けられた屈辱を忍耐されました。
イエスは何で、このような屈辱を耐えられたのでしょうか。
答えは一つしかありません。
人を救うという父なる神のご計画を担う自分の役割に徹しました。父なる神への愛と従順。
そして人間に対する愛。

5.十字架上の叫び

→イエスは十字架の上で、死ぬ間際に叫びました。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
イエスは十字架の上で肉体の苦しみにあえぎ、
御自分の命が終わりに近づく中、
とんでもないことを体験されたのです。
それは<神に見捨てられるという絶望>を味わわれたのです。

→神に見捨てられるという絶望。
この絶望は、私たちと無関係ではないと思います。
死の恐怖、自分が死んだら自分の存在がなくなり、
世界から見捨てられたように思えて、恐れおののく死の恐怖、
これは神に見捨てられる絶望を指し示していると私は考えています。
イエスはこの絶望の中で死んでいきました。

→言うまでもなく、それはイエスが背負われた
人類の罪に対する神の裁きを受けられた、ということです。
罪に対する神の怒りをお受けになったということです。
イエスが十字架の上で神の裁きを受けられたので、
イエスを信じる者の罪を神は赦されます。
人類の罪の赦しが実現しました。
あなたの罪そして私の罪の赦しが実現しました。

→イエスは人類の罪の救いのために御自分が死ぬことは
承知していました。

イエスは弟子たちに三度も、自分が捕らえられ、
苦しみを受けて死ぬことを語っていました。
しかし十字架の上での、神に見捨てられるという絶望は
予期していなかったと思います。
だからあの叫びとなりました。
神に見捨てられるという深い絶望をイエスが味わわれたのは、
罪人を救うためでした。
あなたのため、私のためにあの絶望を味わわれました。

(間)

→イエスは弟子たちに愛について語られたことがあります。

ヨハネ 15:13
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

→「友のために自分の命を捨てること以上に大きな愛はない」
との言葉を、私は理解できます。
きっと皆さんも理解できると思います。
私たちはそう簡単に、
友のために自分の命を捨てることができないからです。
私たちは自分の保身のためには、友を裏切りかねない人間です。
だから友のために自分の命を捨てること以上に大きな愛はないとの言葉を私たちは理解できます。

→そこであらためて思います。
神である方が神という身分を捨てて、
神であることに固執せずに人間となり、
罪を犯す人間の救いのために自分の命を犠牲にする愛、
これはどれほど大きな愛なのでしょうか。
しかも人々の嘲りを受けながら死んでいく主イエスの愛、
それはどれほど深い愛なのでしょうか。
残念ながら、その愛の大きさ、深さを私は理解できません。
私の思いを遙かに越えた愛であると考えています。

(間)

→今までお話ししてきた御子の愛、主イエスの愛を思うとき、
私は聖書の中の一つの場面を思い出します。
ヨハネ福音書13章にある場面です。
主イエスが弟子たちの足を洗う場面です。

ヨハネ 13:1
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 主イエスが弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれたとあります。
主イエスは何をしたのでしょうか。

13:4~5
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

→主イエスは弟子たちの足を洗われました。
主イエスが順に弟子たちの足を洗い、ペトロの番になりました。
主イエスが自分の足を洗おうとしたとき、ペトロは拒みました。
なぜなら、足を洗うのは、奴隷、しもべの仕事だからです。
主イエスにそんなことをさせるわけにはいきません。
だからペトロは拒みました。
すると主イエスはペトロに
「私があなたの足を洗わないなら、
あなたはわたしと何の関わりもないことになる」と言われました。
足を洗ってもらわなければ「あなたはわたしと関係がない」と
主イエスは言われました。

→神である方が人になりました。人間の救いのために人となりました。
神という身分を捨て、僕の身分になりました。
そしてしもべとして弟子たちの足を洗われました。
これは弟子たちを愛し、愛し抜かれた行為だったと書かれています。
これは象徴的な行為だと思います。
主イエスは御自分を信じる者たちを罪から清める方であることを教えています。
主イエスは、御自分を信じる者たちを愛しておられ、徹底的に愛しておられ、信じる者を罪から清められるお方です。

→神であるのに人となり、
人々に嘲られながら十字架で血を流し、
神に見捨てられるという絶望を味わったのは、
何のためであったのか。
主イエスは御自分を信じる者たちを罪から洗い清めるために、
十字架で死なれました。
主イエスが十字架で死なれたのは、
あなたの罪を赦すためだけではなく、
あなたを愛し、あなたを罪から清めるためでした。

祈ります。