クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(19)救いの到達点

 神は、私たちを罪から救い、神との交わりに招いてくださいます。神は、私たちをどこへ導こうとされるのでしょうか。救われて生きるとは何を目指して生きることなのでしょうか。

 創世記3章のアダムの物語は、人間が罪を犯し、堕落したことを告げます。人間の救いとは、この堕落からの救いとなります。人間は神の似姿に創造されましたが罪を犯し、神の似姿を失いました。救いとは、神の似姿を回復することと言うことができます。キリスト者はイエス・キリストを信じ救われましたが、完全な救いは終末の到来の時に実現します。キリスト者はこの世にあって、神の似姿の回復を目指します。

 この世の生活を通して、似姿の回復を目指します。人間が神の似姿を示すことは人間の栄光となります。人間は罪を犯し、この栄光を失いました。

ローマ 3:23
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

 この聖句は人間は神の似姿を示すことに失敗したことを語ります。しかし神はキリスト者を導かれます。

ローマ 8:29~30
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

 ある人たちはキリスト者の成長プロセスを義認、聖化、栄化と表現します。キリスト者にとって光栄のある姿、それは上のロマ書の言葉では、御子のかたちに似た者へと変えられていくことにあります。言い換えると神の似姿に回復されていく、それがキリスト者の歩みとなります。このような歩みができるよう、神は導いてくださいます。そこにキリスト者の成長を願い導く神の愛を見ることができます。

 別な表現をすれば、キリスト者は神と人を愛することにおいて成長していくことを目指します。

讃美歌11番
こころをきよめて 愛をみたし
わが主のみすがた 成らせたまえ

 

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