昨日、葬儀に参列しました。召されたのは牧師です。広島県の教会で長年牧会されている先生です。現役牧師として奉仕されている中での突然の死でした。享年81歳とのこと。
司式の牧師が「天の父なる神のもとに召され、父のもとでの憩いに入られました」と語られるのを聞きました。そうだよな、神さまのもとに行くんだよなと確認しました。
コリント一 8:6
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
死の受容を考えるとき、二つの受容があると思います。一つはキリスト者として自分の死をいかに受け入れるかという受容です。聖書が語る死を越える希望を信じる受容です。今ひとつは、死が差し迫ったときの受容です。私は信仰生活を続ける中で復活の希望を与えられ、自分の死を受け入れました。安心して信仰生活を続けました。葬儀の時には、死を越える希望を聖書から語りました。
そして私は年を重ね、死はある意味差し迫ったものとなりました。いつ召されるときが来てもおかしくない年齢になりました。ある年配の信仰者がさりげなく語った言葉が忘れられません。
「信じるしかない」。
聖書が語る死を越える希望を「信じるしかない」と言うのです。共感します。死を越える希望を確信できる神の言葉を聞きたいという思いがそこにはあります。
使徒パウロはこう語ります。「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」(フィリピ1:23)。「信じるしかない」から「熱望する」ことへ進むためには、どうしたらいいのか、葬儀に参列するたびに考えさせられます。こういう思いがあるせいか、聖書の言葉や讃美歌が新たに心に響くことがあります。今回は葬儀の中で歌った讃美歌が響きました。故人の愛唱歌として歌った讃美歌370番です。
1.
目覚めよわが魂(たま) 心励み
力の限りに 急ぎ進め
いのちの冠は わがためにぞ
天にゆく馳場に 備えらるる4.
み恵み豊けき 救い主の
み声のまにまに 走るこの身
勝ちの日来たらば その誉れは
わが主の力と 歌いまつらん
説教で聞いた召された牧師の歩みを、そして私の歩みをこの讃美歌に重ねながら歌いました。励ましを与えられました。