今、コリントの信徒への手紙一を読み始めています。次の言葉の前に立ち止まりました。
コリント一 1:18
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
十字架の言葉は、救われる者には神の力だとあります。ローマの信徒への手紙の最初でパウロは似たことを語っています。
ローマ 1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ここにも神の力とあります。自分にとって十字架の言葉、福音はどのように力となったのか、と立ち止まりました。若い時に信仰を持ち、クリスチャンになっただけではなく、牧師として福音を宣べ伝える者へと召されて今日まで生きてきました。30才で洗礼を受けたので43年信仰者として、40年弱牧師として生きてきました。福音が神の力として私を生かし、導いてきたことは間違いありません。
しかしパウロが「神の力」と語る時、福音がどのような力であったのか、言葉で表現することは意識的にしてこなかったことを思います。これを言葉にしようとの思いを与えられました。
日頃、わたしは英語の讃美歌をyoutubeを通して聞いています。現代に作られた曲も聞いています。私の好きな曲に ”In Christ alone” があります。『キリストにだけ』という曲名です。
In Christ alone my hope is found
これが出だしです。「私の希望は、キリストの内だけに見いだされる」。いつもは聞き流しているのですが、歌詞をきちんと理解し覚えたいと思い、歌詞を印刷しました。すると4番の歌詞に目が留まりました。
No guilt in life no fear in death
this is the power of Christ in me人生において罪の責めを受けることなく、
死において恐れはない
これこそ私の内におられるキリストの力
キリストを信じて信仰によって義とされ、もはや罪に定められないこと。もはや罪意識に悩まされず、自分は罪人であると自分を責めることがない。この状態に私たちを導くのは神の力によります。
またキリストを信じて永遠の命を与えられるとの希望を信じました。そして死を恐れる必要のないことを知り、恐れなくなりました。これもキリストの力です。神の力です。キリストが十字架において私たちの罪の償いのために死んでくださったこと、十字架の言葉の力がここに歌われていることを知り、うれしく思いました。