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隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(40)罪から解放されて生きる-13

 前回は「肉の人」について書きました。今回は「肉」そのものについてです。聖書によればこの「肉」は、私たちの性質と言うことができます。私たちの性質なので、私たちが「肉」が命じるままに行動するのは自然なことです。しかし信仰を持つと、それが罪であることが分かるようになります。

 ダビデが王宮の屋上から美しい女性が水浴びしているのを見て、その女性を王宮に呼び出し関係を持ちました。「肉」のせいです。ペトロが思わず「あの人のことは知りません」とイエスを否定したのも、言ったのも「肉」のせいです。自己防衛本能のなせるわざです。肉の働きは様々で、私たちを罪に導きます。

ガラテヤ 5:19~21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 ここには「肉」の引き起こす事柄の例が書かれています。誰もが心当たりがあると思います。世の人たちは「肉」に従う歩みをしても疑問には思いません。「肉」に従うのは世の人の常だからです。信仰者が聖書から神様の教えを知る時、「肉」が命じることに従うか否か、心の中で戦いが生じます。

 個別の具体的な罪に私たちを誘うのは、この「肉」です。ですから私たちのうちにある「肉」が、私たちに罪を犯させていると考えることが大切です。この「肉」のために外からの刺激がしばしば誘惑となります。水浴びしている美しい女性を見たために、彼は罪を犯しました。財布が落ちていた。周りには誰もいない。お金だけ抜き取って、と盗みを働くことがあります。

 この「肉」のために私たちは罪を犯してしまいます。私たちが犯す罪は、この「肉」のなせるわざです。罪との戦いはこの「肉」の存在を認めるところから始まります。私たちは、罪を犯す「私」がいけないのだ、「私」が罪深い、と自分を責めたりします。罪との戦いの敵は、自分ではなく「肉」です。

 肉は私たちの性質ですが、闘うべき相手と知ることが大切です。そして聖霊の助けによって私たちはこの戦いに勝利します。 

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