今、コリントの信徒への手紙二を少しずつ読み、ディボーションをしています。この手紙は、パウロが自分が使徒であることを伝えようとする手紙です。パウロはコリント教会を設立した後、コリントを去ります。別な地域に福音を宣べ伝えるためです。すると別な教師がコリント教会にやってきてパウロを批判します。コリント教会の人たちが影響を受けました。そこでパウロは自分がキリストの使徒であることを弁明しようとします。
パウロってさすがだなと私は思います。パウロは二つのことを述べて、自分が使徒であることを伝えようとします。第一に、自分が福音をどう理解しているか、キリストをどう理解しているのかと伝えます。第二に、自分が使徒としてどのように生きているかを伝えます。
たとえば、パウロはこう書きます。
5:21
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。4:4
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
キリストの十字架の死の贖い、それを信じる者は義とされること、また洗礼を受けキリストと結ばれた者は新しく創造された者であること、さらに福音は、キリストの栄光に関する福音であると語るなど、パウロは自分が何を信じているのかを語ります。
また彼は使徒としての自分の生き様を語ります。
6:3~7
わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。
パウロはどんなに苦しくても辛くても、愛に生き、神に信頼し、忍耐をもって福音を伝えている様子を伝えます。
自分が何を信じているのか、どのように生きているのかを示し、自分が使徒であることの判断をコリント教会の人たちにゆだねます。パウロは本当に謙遜な人だと感じます。
牧師は教会では「先生」と呼ばれ敬われます。教会員の敬いが真実なものとなるためには、牧師のあり様が大切であることを思います。福音をきちんと伝えることができているのか、そして牧師として教会員を愛し、神と教会に謙遜に仕えているのかどうか。パウロは私たちにとって良き模範です。