「A長老、こんにちは」
「Bさん、こんにちは」
「早速フィリピの信徒への手紙3章を読みました。使徒パウロの思いがあふれていると思いました」
「パウロの気持ちを感じとられましたね。すばらしい」
「ありがとうございます」
「それで印象に残った言葉がありましたか」
「はい、あります。<キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさ>という言葉が心に残りました。そして自分はどうなのかと思いました。キリスト・イエスを知ることのすばらしさを自分は感じているのかと疑問に思いました。私はイエス様のことをほとんど知らないのでは、と思いました」
「確かにパウロのその言葉は印象に残ります。誰だって自分はイエス・キリストのことをどう思っているのか、どう感じているのだろうかと思いますよね」
「私はイエス様は私の救い主と信じていますが、それ以上深くイエス様のことを知っているのかと言われたら、知らないというのが本当のところです」
「そうかもしれませんね。イエス様は私たちのために十字架で死んでくださり、そして復活されたことを私たちは信じます。イエス様は今、目には見えませんが私たちと共にいて助け導いてくださると多くのクリスチャンは信じていると思います。でもそれ以上、イエス様のことについてどれほど知っているのか、何を知っているのかと言われると返事に困るかもしれませんね」
「はい、その通りです」
「3章を読まれて他に印象に残ったことはありますか」
「パウロはキリスト・イエスを誇りとするとありました。キリストを知ることがあまりにもすばらしいから、キリスト・イエスを誇りにしているのだと思います、この誇りも私には分かりかねます。イエス様が救い主だと信じますが、イエス様を誇るという気持ちは私にはありません」
「なるほど」
「A長老はどうなんですか」
「私ですか。そうですね。私はキリスト・イエスを知るすばらしさを少し知っています。そして私の生き方は変えられたと思っています」
「具体的にお話しください」
「私は若い頃、生きることの空しさを感じていました。どうしたら空しさから救われるのか、救いを求めていました。それで何をしたら、あるいは何を獲得したら、空しさから救われ、満たされた人生になるのか、あがいていました」
「それでどうなったのですか」
「社会人になって、お金を自由に使えるようになったので、色んなことをしてみました。大したことはしていませんが、絵を描いたり、楽器を習ったり、ステレオのセットを買って音楽を聴いたり、山へ行ったり」
「女性と交際はしませんでしたか」
「仕事が忙しく出会いのチャンスがなかったので、仕事の休みにできることをしたわけです」
「なるほど、それでどうなったのですか」
「ある人から教会の伝道礼拝に誘われ、それが教会に行くきっかけとなりました」。
「それで」
「礼拝に通い、聖書を読みました。イエス様は、ご自分のためには生きなかったと知りました。十字架で死ぬことをよしとされました。十字架に向かう人生を歩まれました。自分を無にするような歩みをされました。私はそこに空しさからの救いを見たように思いました。空しさからの救いは、自分のために何かを得る生き方ではなく、自分を与える生き方によって得られるのではないかと思ったのです」
「私たちの常識からは考えられませんね」
「そうですね。でも私は自分を無にして歩まれるイエス様を知った時、私もそうしたいと思ったことは確かです。そして『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』(マタイ16:24~25)とのイエス様の言葉も心に残りました」
「とするとA長老は、イエス様の生き方に感化を受けたということでしょうか」
「感化を受けたというより、イエス様の生き方にこそ、救いがあると思ったというほうがピッタリきます」
「そうなんですか」
「これが私にとってイエス様を知ることの一つと言えます。イエス様は身をもって生き方を教えてくださったということでしょうか。イエス様を知ると人はその生き方が変えられるということでしょうか」。
「今日は、ここまでにしてください。A長老のお話を少し思いめぐらしたいと思います。パウロもイエス様を知ることによって変えられたんですね。少し考えたいと思います。ありがとうございました」
「お元気で」
「さようなら」