クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

A長老とBさんの会話(16)生き方が逆転したパウロ

「A長老、こんにちは」

「こんにちは、Bさん」

「先日はパウロの手紙をもとにしてお話しができて感謝でした」

「私も分かち合うことができてうれしかったです」

「私はこれまで、イエス様を信じたなら、イエス様の教えを守って生きていけばいいと思っていました。でもパウロやA長老は、イエス・キリストを知って生き方が変えられたんですね」

「その通りです」

「しかも感化を受けたのではないと。では何が変わって生き方が変わったのでしょうか」

「フィリピの信徒への手紙3章に戻りましょう。パウロに大きな変化が起きたことが書かれています。どんな変化が起きたと思いますか」

「7節でしょうか。

『しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです』

とあります。パウロは、今まで自分にとって誇りだったものが誇りではなくなったと書いているように思います」

「おっしゃるとおりです。Bさんには、パウロのような経験がありますか。これまで自分の誇りだったものが誇りでなくなった、それどころか塵あくたのようになったという経験がありますか」

「そんな経験ありませんし、そんなこと聞いたこともありません」

「そうですよね。人は色々なことを誇りにしています。家柄、学歴、職歴、富、能力、趣味など色々なものを誇りにしています。パウロもそうでした。信仰熱心で、律法の実践では非の打ち所がないとか、ヘブライ人の中のヘブライ人と自分を誇っていました」

「人間って誇りがないと生きていけないように思います。私は平凡な人間ですが、クリスチャンになったことを誇りに思っていますし、また幸せな家庭を築けていることを誇りに思っています。また仕事をして社会に役立つことをしていると思うと誇らしくもなります」

「パウロは自分が持っていた誇りをゴミ、くずに等しいと思うようになったんです。3節でパウロは、キリスト・イエスを誇りとしていると書いています。パウロは誇るものが変わったんですね」

「そうですね、キリスト・イエスを誇るのですか。私にはパウロの心は分かりませんね。しかしパウロの心に相当大きな変化が起きたことは確かだと思います。いや天地がひっくり返るような変化が起きたと言ってもいいかもしれませんね」

「Bさんもそう思いますか。私も同じです。うちの牧師さんがある時話されたことがあります。牧師になって数年経った頃、あるクリスチャン夫妻が教会員になったというのです。何か事情があって教会を変わったようです。ご夫妻の奥さんが『私はイエス様に出会って洗礼を受けました』と語ったそうです。牧師さんは『出会った』という言葉に違和感を覚えたそうです。でもそのご夫妻は熱心な信仰者で、教会を支えてくれたとのことです」。

「出会ったというのですか。イエス様を信じたというのではなく、出会ったというのは何かあるなと感じますね」

「パウロもイエス様と出会って変わりました。それまで誇っていたものは価値がなくなり、キリスト・イエスを誇りにするようになったと書いています。何が起きたのかと思いますね」

「A長老、パウロは、熱心さの点では教会の迫害者とあります。でもパウロは、復活のキリストに出会い、キリストを宣べ伝える者になったんですよね。これも大変化ですね」

「これは目に見えるパウロの大変化ですね。生き方が逆転したわけですから」

「生き方が逆転したんですね。私の生き方が逆転するとしたら、どうなるのかな」

「私が好きなパウロ言葉があります。それを紹介しますね。

『キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』

です。自分の弱さいを誇るというのです」

「自分の弱さを誇るなんて、理解不可能です」

「でも理由があります。キリストの力がわたしの内に宿るように、とパウロは言っています」

「キリストの力があるから、自分の弱さを誇るというのですか。理屈としては分かるような気がしますが、自分の弱さを認めたくないのが人間ではないでしょうか。それなのに自分の弱さを誇るなんて、理解できません」

「キリストとの出会いによりパウロにはとんでもないことが起きたと思います。そしてそれは人間の誇りとも深い関係があるように思います。つまりプライドです」

「パウロはキリストとの出会いについて、何か手紙に書いていませんか」

「フィリピの信徒への手紙の1章には、

『わたしにとって生きるとはキリストであり』

と書いてあります。ガラテヤ書には

『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです』

と書いています。キリストと出会った結果です」。

「どういうことかわかりにくいですが、気になりますね」

「パウロはガラテヤの信徒への手紙1章でこう書いています。

『しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた』

とあります。神さまが御子を彼に示したというのです。何を示されたのでしょうか。Bさんだって神さまがBさんにイエス様は救い主だと示されたから、洗礼を受けられたのではありませんか」

「まあ、その通りですが、私とパウロとは違うのではないでしょうか」

「もしかしたら同じかもしれません。Bさんとパウロの違いは、パウロは聖書(旧約)をよく知っていたということです。クリスチャンを迫害していたパウロにイエス様が『なぜ私を迫害するのか。私はあなたが迫害しているイエスである』と語りました。これはパウロにとっては、青天の霹靂と言うべき出来事だったと思います」。

「パウロについて少し考えさせてください。ありがとうございました。また続きをお願いします」

「お元気で」

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