クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(59)パウロの死と復活

 キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に生きる人になった人を紹介します。それは使徒パウロです。彼はキリストと出会いました。その結果、キリスト教徒の迫害者であるパウロは死に、キリストを宣べ伝える使徒パウロが誕生しました。

 使徒言行録9章によれば、クリスチャンを迫害すべくダマスコの町に向かっていた彼に復活した主イエスが現れました。そしてパウロは主イエスを宣べ伝える者とされました。

 この時パウロに何が起きたのでしょうか。神に対する熱心のゆえにクリスチャンを迫害していたパウロです。イエスが救い主であることが分かったとき彼が受けた衝撃は大きいものであったと思います。神に対する熱心のゆえに迫害してきたことが、まったく神の御心に反していたことが分かったのです。ショックだったと思います。パウロの罪は不道徳な罪ではありません。神に対する熱心のゆえに行動していたことが神に逆らう行動だったのです。神に対する反抗という罪を犯していたのです。

 どこでどう間違ったのか。パウロは考えたと思います。ガラテヤ書2章で、人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知ってキリスト・イエスを信じましたと語っています(2:15)。そしてパウロは、迫害者であった自分がイエスにより赦されていることを確信したと思います。そして主イエスを宣べ伝える者として歩むことになりました。

 そしてこの出来事によってパウロは全く別な人間に生まれ変わりました。迫害者パウロは死に使徒パウロが生まれました。まさにキリストと共に死にキリストと共に生きる者となったのです。

 彼にどんな変化が生まれたのでしょうか。何を誇りとするのか、誇りの内容が変わりました。自分を誇ることから神を誇ることへ、誇りが変わりました。

 以前のパウロは、律法の義については非のうちどころがない自分を誇りました。自分の出自(イスラエルの民に属し、ベニヤミン族出身)を誇りました。ファリサイ派に属することを誇りました(フィリピ3章)。

 その彼がキリストの十字架を誇る使徒となりました(ガラテヤ6:14)。また自分の弱さ以外には誇るものがないと断言するパウロになりました(コリント二12:5)。自分を誇るパウロが死に、神を誇るパウロが生まれました。

 それだけではありません。パウロにとって主イエスを宣べ伝えることはキリストと死を共にし、復活を共にすることでもありました。

コリント二1:8~10
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。

 パウロにとって宣教における苦難は、キリストの苦難を体験することであり、苦難からの救いをキリストの復活を体験することとして味わいました。さらにパウロは語ります。

ガラテヤ 2:20
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。

 自分のために生きていたパウロが死に、キリストのために生きるパウロが生まれました。

 人はキリストと結ばれるとき、古い自分が死に、新しい自分が生きることになります。

イチョウの落ち葉 奈良公園