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隠退牧師 holala によるブログ

キリストを知ることのあまりのすばらしさ

 パウロはガラテヤ書でこう述べました。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 これはどういう意味なのか、考えています。もう一カ所パウロの言葉を引用します。

フィリピ 3:8
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。

 パウロは誇り高き人でした。彼は次のように誇ります。

フィリピ 3:5~6

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

 彼は自分の生まれを誇り、神の律法を守る点では落ち度がないと信仰者としての自分を誇り、さらに教会を迫害するほどの神に対する熱心さを誇ります。しかしキリストを知ったゆえに、彼が抱いていた誇りは損失となったというのです。彼はキリストを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、今まで自分が誇ってきたことは、ゴミに等しいというのです。

 キリストを知ることのあまりのすばらしさとあります。彼はどんなすばらしさを知ったのでしょうか。このことと「キリストがわたしの内に生きておられる」こととは無関係ではないと考えます。

 復活のキリストに出会い、クリスチャンを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者に変えられました。キリストとは誰なのか、彼はなぜ、救い主メシアなのか、パウロは考えたはずです。彼の思考過程についてパウロは語りません。パウロは結論として自分が抱いてきた誇りは屑に過ぎないと判断したのです。人間は誇りなしには生きられない存在です。パウロはキリストを誇る人間となりました。さらにいえば、キリストの十字架を誇る人間となりました。

ガラテヤ 6:14
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

 この発言は、驚くべきものです。だれがこのパウロの発言に共感するのでしょうか。神に仕え、福音を宣べ伝えるべく日夜努力して説教の準備をしている説教者がいます。自分の説教に説教者は誇りを持ちます。私は説教原稿を書き上げたら、妻に読んでもらい、感想を聞きます。そこで批判されたり、問題点を指摘されたりすると腹立たしくなりました。一人の聞き手として、説教の問題点を指摘してもらいたいと願いながら指摘されると腹立たしいのです。ここにはプライドがあります。自分を誇る思いがあります。妻の批判に対して謙遜に耳を傾けるためには時間がかかりました。

 キリストを知ることのあまりのすばらしさとは何か、それを知ることは、今もなお私の課題です。この素晴らしさを知るから、生きるとはキリストであり、キリストがわたしの内にあって生きているとパウロが語ることができるのだと思います。

フィリピ 3:8
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。

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