クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私が誇るもの

ガラテヤ 6:14
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

 パウロは、キリストの十字架以外に誇るものがあってはならないと語りました。私は「誇る」ということでは禁欲的でした。つまり自分を誇りたいという思いが時に湧いてくるのでこれを抑えることをしてきました。そこでキリストが自分を無にされたこと(フィリピ2:7)を模範とする努力をしてきたと思います。

 「誇る者は主を誇れ」とあるので、自分は主を誇りにしているという思いで生きてきました。あえて自分は「主を誇りにしている」とは言うつもりはありませんでした。

 ガラテヤ6章14節の言葉と向き合う時、積極的に「誇り」については語りたいとは思わない自分でしたが、自分の心に向き合い、私もキリストの十字架を誇りにしていると言うべきだと導かれました。私はなぜ、キリストの十字架を誇るのかと言われたら、キリストの十字架のおかげで今の私があるからです。

ローマ 6:3~5
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 私は洗礼を受け、キリストと共に死に、キリストの復活にあずかり、新しい命に生きていると信じています。罪に支配された古い私が死に、聖霊により新しく生まれた私が今、生きているからです。

ローマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 この聖句に、私は「アーメン」です。これは私のことを語っている聖句です。今まで内に秘めていて言葉にしていなかった思いがありました。今それを言葉に出して言います。「主イエス・キリストの十字架は私の誇りです」。

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アレチヌスビトハギ