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隠退牧師 holala によるブログ

パウロの愛

 今日、第二コリント7章2~4節を読みました。第二コリントはパウロが自分が使徒であることを弁明する内容となっている面があります。パウロがコリントを去った後、コリントに来た教師たちがパウロの使徒性を批判したのです。それでパウロは、自分が福音をどう理解し、どのような歩みで福音を伝えてきたのかを伝えます。そして自分を使徒として認めるかどうか、コリント教会の判断にゆだねています。

7:2~4
あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。

 これは非常に驚くべき内容だと思います。まずパウロはコリント教会と「生死を共にしている」と書きます。パウロはコリントを離れ、別の地でキリストを宣べ伝えています。そんな彼がコリント教会、コリント教会員と生死を共にするとはどういうことでしょうか。これは親子関係で考えると理解しやすいと思います。親は子どもを愛します。子どもが喜んでいれば親もうれしいです。子どもが困難に遭ったり悲しみにあったりすれば親もつらく悲しくなります。親が年老い、子どもが大人になっても、距離が離れて生活していたとしても、子どもの状況は親にとって無関心ではいられないし、親は子どもを案じます。パウロはコリント教会、教会員を愛しているのです。それを生死を共にすると表現します。こういう表現をすること自体、すごいと思います。残念ながら私の人生経験からは生まれてこない言葉です。

 次にパウロは、コリント教会、教会員に「厚い信頼を寄せ」、彼らを「大いに誇っている」というのです。第一コリントを読むと、コリント教会には色々問題があり、それらに対処するために手紙を書いています。第二コリントはパウロの使徒性に疑問を持つコリント教会に対して書かれています。そんな教会にパウロは厚い信頼を寄せ、大いに誇るというのです。普通に考えれば理解できません。

 若い時、私はある長老に対して批判的な思いを抱いたことがあります。教会の現実に色々問題があることを知り、残念に思ったこともあります。牧師も人の子ですから、教会の現実、長老・信徒の現実が好ましければうれしいし、そうでなければ残念に思ってしまいます。しかしパウロは、問題のある教会、教会員に対して、厚い信頼を寄せ、大いに誇るというのです。

 そこで思います。パウロは子に対する親の愛に似た愛を持っているのだと。要するに教会を、教会員を愛しているのです。だから信頼し、誇りにするというのです。信頼に足る教会ではなく、誇りに値する教会ではないにもかかわらず、信頼し、誇るのです。パウロは神の愛で、教会を、教会員を愛しているのです。

 そこで思います。神さまも、実は私たちに厚い信頼を寄せ、私たちのことを大いに誇っているのではないかと。私たちはそのような神さまの愛に値する人間ではありませんが、神は私たちを愛してくださいます。神さまの愛は、相手が自分の愛に値するから愛する、値しないから愛さないというような人間的な愛ではなく、愛することが本質なのが神さまなのだと思います。

 私たちが信仰者として生きることに対して、神さまは信頼してくださり、信仰に生きる私たちを誇りに思っていてくださる、そのことをパウロは身を持って示しているようで、パウロという伝道者のあり様に驚くと同時に、見倣いたいと思います。

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マルバルコウ