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隠退牧師 holala によるブログ

人生を導かれる神(3)

 聖書の言葉、御言葉によって神さまの導きをどのようにして得ることができるのでしょうか。「導いてください」と祈り、聖書を前に置き、適当にぱっとめくった箇所を読めばよいのでしょうか。これは占いのようなもので、よくありません。神さまの導きは占いではありません。

 神さまの導きを求めるなら、大事なことは、導いてくださる神さまがどんなお方で、どんな考えを持っておられるかを知ることが大切です。そのためには聖書に親しむことが大切です。神さまに信頼し、祈って聖書を読み、与えられた導きに従います。与えられたと思う導きが、本当に神の導きなのか、という問いは残ります。自分の思い込みではないかという懸念はあります。たといそれが自分の思い込みであれ、与えられた導きと信じて、従えばよいと私は考えます。大事なのは導きを求める姿勢です。私には、神さまが用意してくださっているよき人生があると信じて、その人生を求めることです。

 旧約聖書に登場するダビデは、ペリシテ人との戦いを繰り返しました。ダビデは神に祈り、導きを求め、その導きに従い続けました。その結果、「主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた」(サムエル記下8章14節)と書かれています。神さまの導きを求めることの大切さを教えられます。

 興味深いのは、エジプトを脱出して約束の地に向かって旅をしているイスラエルの民に対する神の導きです。ある時、飲み水がなくなり窮地に陥りました。イスラエルの民はモーセに文句を言いました。祈るモーセに神はお答えになりました。

イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」(出エジプト記17章5~6節)。

 モーセが杖で岩を打つと水が出て民は飲むことができました。めでたし、めだたし。また別の時に、同じように飲み水がなくて困る事態が起きました。その時モーセの求めに答えて神はこのように言われました。

「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(民数記20章8節)。

 神さまは、「水を出せ」と岩に命じなさいと言われたのです。飲み水がないという同じ状況でも神さまの導きは異なっています。しかしこの時、モーセは、岩に命じることをせず、杖で岩をたたきました。水は出ましたが、モーセは神から咎められました。神は言われました。

「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」(民数記20章10節)。

 この失敗のためにモーセは、神さまが導かれる約束の地に入ることは許されませんでした。

 静岡県の御殿場教会を牧会していたとき、ある牧師から電話がありました。「金沢元町教会が牧師を求めています。金沢元町教会に来てもらえませんか」という内容でした。その時、教会は会堂建築を終え、献堂式直前でした。新しい思いをもって伝道をしようと考えていました。だから即座に断ろうと思いましたが、考える時間をくださいと返事をしました。神さまの導きを求めるべきだと思ったからです。ある朝、読んだ聖書の箇所は使徒言行録の16章でした。

「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(16章9~10節)。

 これを読んで、私の心は定まりました。金沢に行くことが神さまのみ心と判断しました。金沢に行って何年か経ってから、ひとりの教会員が「無牧の時、福音を聞かせてください、と神さまに心を注ぎだして祈っていました」とおっしゃったのを聞いて、使徒言行録を通して、神さまは私を導いてくださったのだと感謝しました。

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梅の香りが素敵。東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ