holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

人生を導かれる神(2)

 何かの問題に直面し、色々手を尽くしたけれどもどうにもならなくて最後に神さまにゆだねることにしたという話はよく聞きます。この場合、ゆだねるとは、成り行きに任せるということだと思います。このように語るクリスチャンの数は決して少なくないと思います。でもよく考えるとこれは聖書的な考えではありません。つまりこれは「人事を尽くして天命を待つ」という考えです。

 この「人事を尽くして天命を待つ」は、日本人の心に深く刻まれた教えのように思います。つまりクリスチャンの心にも深く染みついた教えでもあるのです。これは中国の儒教者の言葉です。その意味では聖書的ではないのです。

 ある集いで「よく人は最後に神さまにゆだねましたと言うけど、最初からゆだねたらいいのにね」と話をしたら、どっと笑いが生じました。受けを狙って話したという面はありますが、僕は真理を話したつもりです。「ゆだねる」とはどうすることなのか、誤解があるように思います。つまりゆだねるとは何もしないことだ、という考えがあるように思います。だから人事を尽くして後は天命を待つとなるのです。

 聖書的に言えば、ゆだねるとは、何もしないことではないと僕は考えています。聖書の言葉を紹介します。

あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
詩編119:105


主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。

詩編 37:23

人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
箴言 16:9

あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。
イザヤ 30:21

  つまり問題に直面したら、聖書の言葉に向かうのです。聖書の言葉が私たちを導いてくれることを知ります。神にゆだねるとは、御言葉にゆだねることだと私は考えています。神にゆだねるとは、御言葉の導きにゆだねることです。御言葉によって行動を起こすということです。その行動が神の導きであると信じるのです。それがゆだねるということです。何もしないで成り行きを神に任せるのとは違います。する努力が違うのです。

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福寿草。春の到来。

道路際に花壇をつくっているお宅があり、そこに福寿草が咲きます。去年も福寿草を楽しみましたが、今年も楽しみます。自分の庭がないので、楽しませてもらっています。