私は1981年春、伝道者としての働きを始めました。それから15年経った1996年、誘われてある超教派の集会に参加しました。その集会で、聖書の読み方について教えられました。「ディボーション」という言葉が使われていました。この「ディボーション」という聖書の読み方を始めている教会が増えているようでした。
この「ディボーション」の特徴は聖書を読んで適用をするところに特徴があります。聖書を読んでただ思いめぐらすだけではなく、神の導きとしての適用を考えるというものでした。
いわゆる福音派の教会の人たちは、以前からディボーションという言葉を使っていたようです。ディボーションという言葉は、もともと「ささげる」という意味があります。朝聖書を読むために時間を献げ、自分を神さまにささげるという意味で、ディボーションという言葉は使われていました。
福音派に属する私の友人はディボーションを若い時から今日まで続けています。彼からの手紙を読むと、聖書を読み、聖書が自分に語りかけるのを聞いて励まされたり慰められたり力を与えられていることが分かります。信仰者は置かれた状況の中で聖書を読み、そこから力を与えられるのです。
この超教派の集会で紹介された、この適用を考えるという「ディボーション」の方法は、福音派の人々にも新鮮に映ったように思います。この超教派の集会で「ディボーション」を学び、それを教会の中で紹介し、実践している例なども、その集会で報告がなされていて、とても興味深く感じました。
そして私は、自分が納得できる聖書の読み方は「これだ」と思いました。この聖書の読み方に大いなる関心を持った私は、この「ディボーション」を学ぶために週に一回、合計10回御殿場から東京に妻と通い学びました。毎回聖書の読み方を学び、何を教えられ、どのような適用をしたのか、分かち合いが行われました。他の人がどのように聖書を読み、適用をするのか、興味深いものがありました。
私は今日まで、この「ディボーション」を続けています。御言葉によって生きる、御言葉に立って生きるということがこのディボーションによって私には可能となりました。
詩編119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。