私は牧師として三つの教会を牧会しました。三重県の鳥羽教会を8年。静岡県の御殿場教会を13年。金沢元町教会を15年。いずれも日本基督教団の教会です。最初に通った教会が日本基督教団の教会だったので、この教派の牧師となりました。
神さまのお支えなしに牧師の働きはできません。毎週の説教ごとに語るべき言葉を与えられて牧師の務めを果たしてきました。神さまの貴重な導きは、人との出会い、特に牧師との出会いです。これは与えられるもので自分が求めて与えられるものではありませんでした。
K先生:敬虔に生きることを教えられました。
T先生:教会とは何かを教えられました。
A先生:聖書を神の言葉として読むことを教えられました。
M先生:超教派の集会に誘ってくれました。
B先生:聖書の読み方を教えられました。
H先生:聖書の教え方を教えられました。
K先生:説教について学びました。
振り返ってみてこれらの出会いがなかったら自分はどんな牧師になりどんな働きをしたのかと思うとぞっとします。神学書を読むだけではどれほど成長できたのか、疑問です。
神さまはこれらの出会いを私が必要としていたことをご存じだったのだと思います。本からは学べないことを沢山教えられました。そして学んだことを消化して自分のものにしていきました。
でも私はこれらの先生に師事することなく、傾倒することもなく、個人的に親しくなることもありませんでした。人間的な親しさを求める思いは私には少なく、学ぶことに関心が強かったと思います。私にとって師事すべき方、傾倒すべき方はただおひとりしかいません。イエス・キリストです。
神さまは私をどこへ導こうとされたのか、それが最近分かりました。パウロはコリント教会宛の手紙の中でこう書いています。
コリント二12章19節
愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。
信仰者を造り上げる、これが牧師の働きの目的なのだと今ようやく理解できるようになりました。そして自分がしてきたことはここを目指していたことと知り感謝です。