明日のG教会での礼拝説教の原稿ができあがりほっとしています。
私が説教を作るとき心がけていることが一つあります。人間の言葉、特に神学者の言葉を引用しないということです。宗教改革者ルターやカルヴァンの言葉も引用することは控えます。それらがいかに信仰的な言葉とはいえ、人間の言葉だからです。祈りをもって著述した言葉かもしれませんが、説教を聞く会衆からすれば、人間の言葉です。
そういうと、お前の説教はお前の言葉じゃないかと言われるかもしれません。確かにそうです。でも説教者は説教するように神から委託されて説教を語ります。そして説教はある意味、証言の言葉なので自ずと自分の言葉となります。説教者の言葉が、神の言葉として用いられるわけです。神さまは説教者という人間の言葉を用いられます。
神学者の言葉を引用するとき、そこに一種の権威付けを求める傾向があると思います。○○がこう言っているから、だから・・・・。説教を聞く会衆は、神学者の名前を知らないし、名前を知っていたとしてもどんな人かは分からないことが多いと思います。もし引用したいなら、神学者の言葉を十分理解し、自分の言葉で言い換えればいいのです。生半可に引用すると自分のものになっていない言葉を語ることになります。
昔先輩の牧師から引用するなら聖書から引用しなさいと教えられました。今はそれが本当だと思っています。説教を聞く会衆が聖書を読みたくなるように、聖書からの引用が大切だと教えられました。神学者がどんなに偉くとも、権威は聖書の言葉にあります。
また超教派の集会に出て聞いた印象に残る説教がありました。極端に言えば、聖書の引用だらけの説教でした。でも聞いていて好感を持ちました。神の言葉としての聖書に対する信頼がそこにありました。