最近の新型ウィルスの感染に関連して高齢者は重症化しやすいとの報道がなされています。大型クルーズ船に乗っていた二人の高齢者が亡くなったとの報道もありました。私も高齢者。万一感染すれば重症化する恐れがあるし、死が迫ってくることになります。
先日新聞に作家の小池真理子氏が『夫の死に寄せて』という文を寄稿していました。
「彼が求めていたのは死に向かう際の、自分の心の安寧だけだった」
とありました。
「無情にも死を受け入れざるを得なくなった彼の絶望と苦悩、死にゆくものの祈りの声は、そのままわたしに伝わってきた」
とも書かれていました。彼女の夫は69歳で亡くなったそうです。
自分の死を受け入れる、それはだれもが直面する大きな課題です。私の人生の一つの課題は、いかにして自分の死を受け入れるか、でした。年をとれば、生きることに疲れ、まあ死ぬのは仕方がない、と受け入れることができるようになる面があります。それに死ぬのは自分だけではなく、みんな死ぬ、と諦めるようになるかもしれません。諦める、私は大嫌いです。
私はイエス様に従う、あるいはイエス様に倣う者となることを信条としています。それがどれほどできているかは、気にしません。成績をつけるなら、5点でも10点でもいいと思っています。その私が死を受け入れる理由は、
イエス様が死んだから、
です。イエス様が死なれた以上、私も死なないわけにはいかない、と考えるわけです。死ぬことも、またイエス様に倣うという考えです。仕方なく死を受け入れるのではなく、受け入れざるをえなくて受け入れるのでもなく、死もまたイエス様に倣うのです。今のところ、これ以外に自分の死を受け入れる理由は見当たりません。
私の場合には続きがあります。イエス様が復活されたので、イエス様に倣い私も復活させていただく希望があります。