クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私のためにイエスは涙を

 今日はヨハネ福音書の11章28~~37節を読みました。イエス様は、兄弟ラザロが病気ですとの知らせをマルタとアリア姉妹から受けていました。しかしイエス様はすぐに出かけることをしませんでした。そしてイエス様が彼女たちのもとに行った時、ラザロが墓に葬られて四日たっていました。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか」。彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(33~35節) 

  「心に憤りを覚え」。どういうこと?「イエスは涙を流された」。なぜ涙を?
 聖霊の導きを祈り、またしばらく思いめぐらしました。すると37節。

しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 

  イエス様が心に憤られた理由が分かりました。イエス様はこの場面に「死の支配」を見たのです。誰も死にあらがうことはできません。ラザロは死に、マルタとマリアは悲しみ嘆くしかありません。死が悲しみをもたらします。そして「盲人の目を開けた人もラザロが死なないようにはできなかった」と言う人もいました。イエス様とて死に勝つことはできないとの言葉です。人間は死の支配下に置かれている、そのことにイエス様は憤られたのだと思いました。イエス様は

「わたしは復活であり、命である」(25節)と語られたばかりです。

 イエス様は死の支配を打ち破るためにこの世界においでになりました。そして死の支配に打ちひしがれている人たちを見て、そしてイエス様でも死に勝つことはできないとの言葉を聞いて心に憤りを覚えられたのです。

 そしてイエスは涙を流されました。また思いめぐらしました。それは死の支配のもとに置かれているみじめな人間のために流す涙と感じました。死の支配に屈している人間を憐れむ涙です。

 私自身、小さい頃から死の恐怖に捕らえられながら生きてきました。大学生の時に、いつか死ぬのなら何をしても空しいと感じました。こんな私のためにもイエス様は涙を流されたのだと知らされました。死の恐怖と空しさに捕らわれたみじめで悲惨な私をご覧になって涙を流されたのです。そしてイエス様は私を救いに導き、罪と死の支配から私を自由にしてくださいました。

 とても幸いな聖書を思いめぐらす時を与えられました。

f:id:holala:20191203235317j:plain

会堂に飾られたツリー