先週読んだヨハネ福音書の言葉です。以前にもこの聖句を読み、どういうことを言っているのか、思いめぐらしたことがあります。どう解釈したらよいのか、分からないままでした。でもイエス様がご自身を現してくださるとの約束は見過ごせません。そして先週、またこの箇所を思いめぐらしました。
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。(ヨハネ14:21)
以前施設に在園する一人の教会員が「イエス様が私の枕元に現れた」と訪問した私に語られました。そしてその姉妹は、「私はいつ死んでもいい」と話されました。分かる気がします。イエス様は
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
と言われたのですから、こういうことがあったとしても不思議ではないと思います。このようなイエス・キリストの現れは、うらやましいと思います。これは、どちらかというと神秘的な体験なので、恵みとして与えられたら感謝ですが、これを是非与えられたいと祈るつもりはありません。
以前、転入会された姉妹が「私はイエス様に出会いました」と語ったことがあります。洗礼を受けたことを「イエス様に出会った」と言われたと解釈しました。「どんな風に出会われたのですか」と聞いておけばよかったと思いますが、その時は、ちょっと気おくれして聞けませんでした。それまで「イエス様に出会った」と話す人には出会ったことはなかったからです。
21節のイエス様の言葉は今回、イエス様が生きて働かれる救い主であることがわかるということではないかと解釈しました。そこでイエス様は、私の人生の中で、どのようにご自身を現してくださったのかを思いめぐらしました。
① 信仰を持つ以前に
教会には通っていましたが、信仰をもつ前のことでした。ある本でイエス・キリストは自分にプラスとなるものを求めて生きてはいなかった。むしろ自分をささげ、自分を与える歩みをされた。得るのではなく、与える歩みをされたと書かれていたように記憶しています。
これを読んだとき、一種の啓示を受けたような気持ちになりました。人は与えることを通して、豊かになるのではないか、と思いました。そのことは空しさから僕を救うきっかけとなりました。そしてイエス様を信じるように心が動かされたように思います。何をすれば、何を得れば空しさから救われるのか、と考えていた私に、獲得するのではなく、与えることにこそ、空しさからの救いがあると教えられました。私を信仰に導くべく、この時、主イエスは私にご自身を現されたのかもしれません。
② 最近のこと
私は老いました。今の私にとって大切な聖句があります。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。
私にとってこの主イエスの言葉は、希望の言葉です。あたかも目の前で主イエスが私に語りかけておられると受けとめます。この言葉を思い起こすとき、希望の言葉を語る主イエスが私の前に来て下さって語りかけてくださっているように感じます。ご自身を現して下さったイエス様の声を聞くのです。この聖句は、説教奉仕をしているG教会の祈祷室に掲げてあり、祈祷室に入るたび、イエス様が語りかけておられるように感じます。
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2月9日G教会での礼拝の説教を説教サイトにアップしました。
時間のある時、是非、聞いてもらえるとうれしいです。
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