旧約聖書に預言者イザヤが登場します。イザヤ書6章に彼が預言者に召された記事があります。長いですが引用します。
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」。
イザヤは神の臨在に直面しました。彼は告白します。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」。
神の臨在に触れたとき、イザヤは自分が罪深き者であることを知らされ、神に滅ぼされると実感しました。興味深い出来事です。自分という存在が罪あるものであることを知らされたのです。
この出来事は二つのことを教えてくれます。
- 人は、神の臨在に触れると、自分の罪を知らされるということです。
- そして人は生まれたときから罪あるものだということです。
神の臨在に触れるという体験はあまりないと思います。むしろ神の働きかけによって、私たちは罪を思い知らされるといった方がよいと思います。神の働きかけは様々だと思います。
かつて体に悪いと知りながらタバコを吸い続けていた私はある時咳をし、ハンカチを口に当てたとき、そのハンカチに血がべったりついているのを見て自分の罪を思い知らされました。あの咳を通して、神さまは私の罪を知らせてくださいました。この出来事は洗礼を受けるきっかけとなりました。
私たちが生まれたときから罪あるものであることは詩編51でダビデが語っています。
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。(詩編51:7)