クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(5)聖なる者として生きる-1

 聖なる者というクリスチャンのアイデンティティーは、大切なものです。ゆっくり時間をかけてこのアイデンティティーに生きるようになることが大切だと思います。自分が聖なる者であると考えたり、聖なる者になることを考えると、「とんでもない、無理、そんなこと考えたくない」などとの拒否感が生じるかも知れないからです。

 クリスチャンが聖なる者になることは神さまの御心です。そのことは聖書にはっきりと書かれています。

エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 神さまは、私たちを信仰者になるように選ばれたとあります。「いや、私は自分から教会に行き、自分で信仰をもつ決心をした。私が神を選んだのです」という方もおられると思います。しかし主イエスは、私たちが信仰者になったことについては、選びがあったと語っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。世の中には教会に行かず、信仰を持とうとしない人が多いのに、自ら教会に行き信仰をもつ決心を自分がしたとしても、私たちは神さまに選ばれ導かれたのだと私は信じています。

コロサイ 1:22
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

 神さまはイエス・キリストを信じる人を「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださった」とあります。救い主イエスを信じる者のすべての罪を神は赦し、罪を犯したという汚点(きず)のない者、とがめられるところのない者とされました。

 もちろん現実の私たちは罪を犯しますし、よこしまなことを考え、汚れた思いを抱くことがあるので、「聖なる者とされた」と言われても「困ります」と言う人もいるかもしれません。「私は聖なる者ではありません」と言われる方もおられると思います。現実の自分がいかなるものであるかは、ひとまずおいておいて、神さまの御心に目を向けたいと思います。

ペトロ一 1:16
「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 これは旧約聖書の引用です。もとはレビ記です

レビ記11:44~45
わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。

 聖なる者とはもともとは他の人とは区別されたという意味であり、また神のもの、との意味です。イスラエルの民は他の民族の人たちと区別され、神の民とされました。そして神のものとされました。「自分自身を聖別して」とは、自分がそのようなものであることを認めることを意味しています。聖なる者となれ、との神の命令を受け入れることが語られています。

 ですからクリスチャンである私たちもまず、自分は聖なる者とされていると受けとめることが大切となります。私たちは神に選ばれ信仰に導かれました。その私たちを神さまは、神の子とし、聖なる者にしたというのです。私はこの神さまの御心を受け入れ、自分が聖なる者とされたことを喜びたいと思っていますし、喜んできました。今も喜んでいます。

 神さまはクリスチャンである信仰者を「聖なる者」と見てくださいます。私はこのことをうれしく思いますが、もしかしたら「そんな風に見られるのは怖い」と思う方もおられるかもしれません。神さまが自分に何か要求するのではないかと考え、不安に思い恐れを感じるのです。でも心配はありません。次回、そのことについて書きます。

 聖なる者として歩む第一歩、それはこのアイデンティティーを受け入れることです。

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あじさいの季節です 散歩道にて