「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神 の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(ヨハネ一 3:1)。
礼拝で司式者の方が祈りの中で「私たちは罪深い者です」と祈られるのを時々耳にします。私はこれを聞くと悲しくなります。そしてきっと神さまも悲しく思われるのではないかと考えます。神さまは私たちのことを「神の子」と呼んでくださるのです。すると私たちは罪深い神の子なのでしょうか。もちろん違います。私たちキリスト者は、神さまに愛される神の子なのです。神の子、これがキリスト者のアイデンティティーです。キリスト者は神の子なのです。
神さまが私たちのことを愛すべき神の子と呼んでくださるのに、「いや私は罪深い者なのです」と私たちが言うとしたら、「何でそんな風に考えるのだ」という神さまの抗議の声が聞こえてきそうです。
自分は罪を犯すから自分は罪人、自分は罪深い者と考えるのでしょうか。自分は罪深いと語る人は、それは謙遜な気持ちから出る言葉だと考えておられるかもしれません。でもそれは謙遜ではないと思います。自分の思いにこだわっているだけです。「あなたは私の愛する子」という神さまの言葉を素直に受け入れる人こそ謙遜な人だと思います。
「私は罪深い者です」と語る人は不信仰で頑なです。少なくとも聖書を読むとイエス・キリストを信じる人は新しく生まれ、その人の内に聖霊が住まわれ、聖書を神の言葉と信じ、神の教えを行い聖なる者とされていく、という救いの道を神さまは用意してくださっています。それゆえ神の子とされたことを感謝し、聖霊の導きを求め、神さまの教えに従順となり、聖なる者とされる道を歩む、それが謙遜な人だと考えます。これを拒み、「私は罪深い者です」と言い張り、聖なる者とされる道を歩むことを拒むのは不信仰で、頑なであると私は考えます。
私たちキリスト者は罪を犯します。それは確かです。しかし私たちは神の子とされています。キリスト者は神の子にされたのです。そして神の子とされていることを喜ぶのです。たとい罪を犯しても「私は罪深い者です」と人前では決して語りません。むしろ「私は罪赦され、神の子とされていることを喜んでいます」と語ります。キリスト者は神の子なのです。
「あなたみたいな人が神の子?」
「そうよ。罪を犯し、滅びるしかない者のために、神さまは救い主を送られたの。そして救い主キリストを信じる者を神さまは神の子と呼んでくださるのよ」。
「それはうぬぼれでしょ」
「そうよ、うぬぼれよ。何がいけないの。神さまが私のことを神の子と呼んでくださるの。『あなたが私を神の子と呼ぶのは間違っています』と神さまに言えると思う?神さまより私のほうが偉くなってしまうわ。神さまが間違えるなんて、あり得ない!あり得ない!」。
「あなたを見ても、少しも神の子らしくないわ」。
「だれが見ても私たちが神の子らしいから、神さまは私たちのことを神の子と呼ぶのではないのよ。実態に即して言えば、私たちは神の子らしくないのよ。神の子としての香りをただよわせてもいないわ。でも『あなたは神の子』と神さまが呼んでくださるから、私は神の子なの」。
キリスト者は神の子とされたことを喜び、少しでも神の子らしくなろうと歩みます。これが誠実なキリスト者の歩みです。
私たちが「私は罪深い者です」という時と場合があります。それは隠れた部屋で神さまに向かって祈る時です。その時だけです。その時は、正直に神さまの前に出て、神さまに憐れみと恵みを求めて祈ります。
「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ 3:26)。
信仰を得て間もない人たちに「私たちは神の子」「あなたも神の子」と伝えていきませんか。