クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

不可解な聖句

 私には不可解な聖句がいくつかあります。その一つがヨハネ福音書7章の言葉です。

ヨハネ 7:37~39
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。

 若い頃からこのイエス様の言葉は私の心に留まっていました。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とは、何を意味しているのでしょうか。どんな事態を語っているのでしょうか。それが分かりません。不可解です。イエス様を信じる人が受ける聖霊について語っているとの説明がなされています。それ以上のことは分かりません。

 「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」。躍動的です。生きた水が湧き出て川となっていくというのです。山の中を小さな水の流れが流れます。この小さな流れは他の流れと合流してだんだんと大きな流れとなって勢いよく流れる川となります。私たちの内から何が流れ出るようになるのでしょうか。しかも川のように勢いよく流れ出るというのです。

 ここにはイエス様の招きがあります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。人は何に渇くのでしょうか。そしてイエス様のもとに行って飲むとはどういうことを意味しているのでしょうか。旧約聖書に「渇き」についての言及があります。

詩編42:2~3
涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。

 イエス様は詩篇が語るような魂の渇きを語っているのだと思います。この詩篇が語る渇きは、私にもあります。この渇きのいやしをイエス様は語っているのでしょうか。私の好きな讃美歌502番にこのような歌詞があります。

いともかしこし イエスの恵み
つみに死にたる 身をも活かす
主よりたまわる あめの糧に
飢えしこころも 飽きたらいぬ 

  信仰を得て、私の心は渇きから癒やされました。しかしそこからさらなる渇きが生じました。この渇きはいかに癒やされるのか。いつの日に、わたしの内から生きた水が川のように流れ出るのか。これからの課題です。

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