holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

わたしは命のパンである

 イエスは言われました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。

 

 人は何に飢え、何に渇くのでしょうか。イエスはサマリヤの女性に対しても、わたしの与える水を飲む者は決して渇かないと言われました。

 私にとっては、自分の生きる意味、生きる目的がわからない状態、それが飢え渇いている状態でした。かつて死を恐れ、何をしても最後は死んでしまう、そう思うと結局生きるとはむなしいことであると若い日に考えていました。この空しさから解放され、生きることを喜びとし、明確な目標に向かって生きることができる、それが私にとって、飢え渇きをいやされた状態でした。それがイエス・キリストを信じることによって与えられました。

 あるいは自分の存在を肯定できることが飢え渇きを覚えないことでもありました。欠けの多い自分の存在を受け入れることは決して容易ではありませんでした。特に自分と他者を比較し、自分の貧しさに落胆し、そのような自分を喜ぶことができない時期がありました。自分という存在を喜ぶことができない、それも飢え渇きの状態でした。ここからの救いは、神さまは私を愛し、私を受け入れてくださっていると信じることにありました。神さまが私を受け入れてくださっているなら、どうして、私が自分を受け入れないでいることができるでしょうか。さらに神さまは自分を個性ある者として造られたことを学んだとき、生きる出発点に立つことができたと思いました。

 でもイエス様が命のパンという時、私たちは日々、命のパンを食することを意味しています。パンは毎日食べるのです。信仰者として生きるとは、教えを身につけて生きるというより、日々パンを食すること、つまり日々聖書を読むことにあると思います。さらに言えば、聖書を通し、イエス・キリストをさらに深く知ることが、飢え渇きをいやす魂の糧となります。

 迷える小羊である私は、自分の主人である羊飼いを知り、羊飼いに従うことによって安心して生きていけるようになりました。聖書を読み、イエス様の言葉を聞くことを喜びとしています。

 ではもう飢え渇いていないと言えるのでしょうか。私は飢え渇いています。イエス様は言われました。

「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる」。