今週、週の後半は、子ども家族が横浜から、また小松から奈良に集まり、孫たちと共に過ごしました。人数が大勢なので、夕食のために私はカレーを16人分、パスタ用にトマトソースも16人分を作りました。迎える奈良に住む娘の負担を少しでも軽くできればと頑張りました。
孫たちの存在は、神さまの恵みそのものです。私と妻が出会い、結婚し、子を授かり、その子どもたちが無事に成長し、結婚をし、子を授かりました。私と妻が神さまに生かされているしるしが孫たちの存在ということができます。幸いな人生を過ごすことが許され、感謝なことです。
一人の孫が、妻に「おじいちゃんが死んだら、○○に住んだら」と言ったと妻が話してくれました。私が遠くない将来に死ぬ存在として見られていることを知りました。私自身は老いるつもりはありませんでしたが、老いました。そして喜んで老いを生きる思いで日々を過ごしていますが、それは裏返せば、老いを生きることに伴う陰みたいな部分を意識していることに他なりません。体力が衰え、健康の面でも差し障りを感じるようになりました。孫たちと一緒に遊び続けることはできません。
私たちの歩みには光が当たる部分と陰の部分がいつも隣り合わせであることを思います。それは老いた人だけに限らず、どの年代にも、そして誰にもあるように思います。そのような現実の中で、神を信じ、神をたたえる歩みができるなら、感謝です。
今、詩編90編を繰り返し読んでいます。この箇所をキリスト者としていかに読むのか、課題と受けとめています。
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。
あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。
知恵ある心を得ることができますように