日曜日の礼拝説教はアブラハムの説教でした。今日の祈祷会でもアブラハムが祝福の源となったことが話題となりました。アブラハムのことを思いめぐらしました。聖書創世記12章にアブラハムという人物が登場します。
創世記 12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
アブラハムは行く先を知らずして出発しました。若い時、このアブラハムの姿は信仰の決断を励ましてくれました。信仰生活が一体どのようなものか分かりませんでしたが、洗礼を受け信仰生活に入りました。自分が牧師になるよう導かれるとは思っても見ませんでした。
そして牧師になり、やはりまた行く先を知らずに歩みました。最初は三重県の鳥羽、静岡県の御殿場、石川県の金沢、そして引退して今は奈良に住んでいます。まさに神さまが示す地に導かれて歩んだ思いがします。
そして今なお、アブラハムに倣いたいとの思いが私にはあります。彼は自分が生きている間には実現しない神の約束を信じました。神さまは彼に約束しました。「わたしはあなたを大いなる国民にし」。一体いつ彼の子孫が大いなる国民となるのでしょうか。彼は100歳の時にようやくわが子を授かります。そんな彼が、子孫が大いなる国民になるのを目にすることはできません。アブラハムの孫のヤコブがエジプトに移住しましたが、その時ヤコブの家族は70人でした(創世記46章27節)。
アブラハムは自分が生きている間には実現しない神さまの約束を信じました。老いた私はこのアブラハムが好きです。自分が生きている間に実現しない約束を信じるなんて、おかしいと言う人がいるかもしれません。だまされているんじゃないの、と言う人もいるかもしれません。アブラハムが信じたから、私も自分が生きている間には実現しない神さまの約束を信じてよいと考えました。死んだ後、復活し、最後の審判を受け、神の国に迎えられると信じます。また信じようとしています。
信じようとしているというのは、それは本当だろうか、という思いが時に湧いてくるからです。信仰には疑いという影が伴います。前を見ていれば、影は見えません。私にとって前を向くとは、聖書を読むことです。毎日聖書に親しみます。
アブラハム 神の約束 信じ抜く
夜空の星を ひとり仰いで
われもまた 神の約束 信じ抜く
信仰の父 わが師を慕い
神の目に 正しき者は 誰なるか
神の言葉を 信じ抜く者