最近、執り成しの祈りをするとき、執り成すその人の上に「恵みと平和」があるように祈ることが多いです。祈祷会で、教会員の方の消息が語られ、祈りが勧められます。消息に応じた祈りをすればよいのですが、その人の事情が続けて報告されるわけでもないので、時の経過と共にふさわしい祈りが分からなくなると感じて、恵みと平和を祈るのがよいのではないかと思うようになりました。
使徒パウロも手紙の最初で受取人のために「恵みと平和」を祈っています。なぜパウロは恵みと平和を祈るのでしょうか。おそらく人間にとって神の恵みと平和が与えられることが最高の祝福であるとパウロは考えたのではないかと思います。
誰かが私のために恵みと平和を祈ってくださったとします。その人は私の事情を知っているとは限りません。しかし恵みを祈ってくださいます。神さまが私に恵みをくださるなら、それは本当に恵みです。神さまは私にとって最善を導いてくださると私は信じているからです。
病気の人のためにいやしを祈ることが最善なのかどうか、私には分かりません。病気が治ることはうれしいことです。もしかしたらその人には、病気が治ることよりもっと大事なことがあるかもしれません。きっと神さまはそれをご存じです。だから恵みと平和を祈るなら、安心して祈れます。
恵みと平和を祈るというのは、安易な祈りではないかと言う人もいるかもしれません。でもそれは祈る人の気持ち次第だと思います。
ウクライナのために祈る時は、具体的に祈りたくなります。ロシアの軍事侵攻が失敗に終わり、ウクライナに平和が戻ることを忍耐強く祈っています。