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隠退牧師 holala によるブログ

A長老とCさんとの対話(8)信仰とは神との関係に生きること

「Cさん、こんにちは」

「A長老、こんにちは。お声をかけてくださり、うれしいです」

「先日の、罪の重大さについて、こんな風にお伝えしたらよいのかな、と思ったものですから、早くお話ししたいと思いました」

「そうですか。それはうれしいです。お願いします」

「うちの先生がある時話されたことを思い出したんです。それがお役に立つと思いました」

「是非、お聞きしたいです」

「私たちは信仰がどういうものかを分かって洗礼を受けたわけではありませんよね。私が洗礼を受けたときも、洗礼を受けるように導かれました。信仰のことがよく分かっていたわけではなく、信仰生活を送る中で段々分かっていきますと先生から教えられました」

「それは私も同じです」

「私たちは礼拝で説教を聞いたり、教会で聖書の学びをして信仰について学びます。うちの先生が、『実は聖書が教える信仰の一つの特徴があまり教えられていないように思う』と言われたことがあるんですよ」

「何ですか。是非聞きたいですね」

「まず聖書の言葉を引用しますね。『彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる』(エレミヤ24:7)。つまり神さまは、私たちにこう言われるのです.『わたしはあなたの神となる。あなたは私の民となる』。ここには神さまと私たちの関係が表現されています。神さまは、私の神さまになってくださるというのです。そして私は神さまの民だというのです。信仰者は、神さまを神とし、神の民として生きる。これが聖書の教える信仰の特徴の一つなんです。いや信仰の根本といえるかも知れません」

「ちょっとわかりにくいですね」

「ではたとえでお話ししましょう。キリスト教の結婚式を行うとき、結婚志願者は誓いをします。男性は、隣にいる女性を妻として愛することを誓います。女性は隣にいる男性を夫として愛することを誓います」

「そうですね」

「男性は、妻となる女性を妻として愛します。そして彼女の夫として振る舞います。妻を愛し、夫としてふさわしい歩みをするわけです。女性も夫を愛し、妻としてふさわしい振る舞いをすることを誓います」

「それはわかります」

「これと同じです。私たちは、神さまを神とします。つまり神さまを崇めます。そして神の民として生きていきます。神さまは、私たちを愛し、神としてわたしたちに関わってくださいます。このような関係に真剣に生きる、これが聖書の告げる信仰なんです。信仰とは神さまとの交わりに生きることということもできます」。

「正直、そのようなことはあまり考えたことがありませんわ」

「そうかもしれません。うちの先生も、このことはあまり教えられていないように思うとおっしゃっていました。大事なのはここからです。夫が妻以外の女性を愛したらどうなりますか」

「今流に言えば、不倫ですね」

「はい、これは罪です。妻以外の異性に妻に注ぐべき愛を注ぐのは姦淫と呼ばれますね。結婚においては夫婦関係を誠実に生きないことは罪です。そして信仰において、神さまと信仰者である私の関係に誠実に生きないことは罪です。神を神として崇めない、神の民としてふさわしい歩みをしない、神との関係をないがしろにする、これが罪です。神との関係をないがしろにするから罪は重大な問題です。どうですか」

「夫婦関係をたとえとして考えると、分かるような気がします」

「聖書では、全身全霊をもって神さまを愛することが教えられています。神さまを信じないことは大きな罪です。神さまを無視するわけですから。神さまを無視するなら、人は自分の思いに従って生きていきます。すると神さまの教えに背くようなことをしてしまいます。罪を犯します」

「クリスチャンでも、神さまを信じていても罪を犯しますね。それはなぜなのでしょう」

「神さまの御心よりも自分の思いを優先するからではないでしょうか。アダムとエバは、食べたいという自分の思いを優先し、神さまから食べることを禁じられた木の実を食べてしまいました。自分の思いを優先するというのは、神さまを神としないということです」

「すると罪が重大なのは、信仰者でありながら、神さまを神としない振る舞いをするからなんですね」

「それと同時に、神さまを信じる者としてふさわしい歩みを怠り、神の民としてふさわしく歩まないことも大きな罪ですね。言い換えると罪とは、神を信じる自分を裏切るような行動をするのです。そして神さまを裏切るのです」。

「ふ~ん。なるほど。そうなんですか」

「私たちが具体的に行う行動としての罪だけを考えていたら、罪の重大さ、事の重大さは分からないかもしれませんね」

「A長老は、御自分の罪についてどう考えておられるのですか」

「私はある時、自分が神さまのみ心に無関心であったと思わされたことがあります。礼拝は大切にしていましたし、聖書の教えにも従う努力はしていました。信仰者としてはそれなりに努力して振る舞っていたと思います。しかし神さまの御心を考えることはほとんどしていなかったことに気づかされたことがありました。信仰者らしく振る舞う努力はしていましたが、神さまのみ心を知ろうとはしていなかったのです。結婚生活でいえば、伴侶の心を知る努力はしていなかったということです」

「なるほど。結婚生活では伴侶に自分の心を大切にしてよ、とは思いますが、自分は伴侶の心をどれほど大切にしているのか、と思います。妻の役割をきちんと果たしていれば、それで十分だと考える思いもありますね」

「相手との関係をおろそかにする気持ちがあると、それが行動となって表れてきます。相手との関係を真剣に、誠実に生きることが大切で、それを聖書は愛し合うといっていますね」

「深いですね。罪の重大性、少し分かったような気がします」

「私たちは神の子とされました。父なる神さまを敬い、神の子として生きていく、それが信仰です。うちの先生からこのように教えられました」

「今日は有難うございました。家に帰ってじっくり思いめぐらしたいと思います」

「お元気で」

 

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