クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信じる心と疑う心(5/5)対処法

 疑うことは、偽りを信じないために大切なことです。疑いが生じたときは、疑いを放置していると疑いに取り込まれてしまうので、きちんと対処することが必要となります。

 私にとって疑いに対する一つの対処法は、自分が信仰者として歩んできた歩みを考えることです。自分はクリスチャンとして長年生きてきました。信仰の歩みをしてきました。疑うとは、これまでの信仰の歩みが意味がなかったと評価することになります。これは自分の人生を否定することになります。人生を無駄に生きてきたと認めることになります。キリスト者という自分のアイデンティティーを否定することになります。これはなかなか耐えがたいことです。それゆえ、疑いを捨てます。疑いに対する一つの対処法になると考えました。

 信仰に関わる事柄は、必ずしも証明できるとは限りません。証明できるなら疑いは消えます。そもそも神がいるかどうか、証明はできません。証明できないので私たちは信じます。神がおられると聖書が語ることは真理だと考えあるいは納得し、神を信じます。

 疑いが生じるとき、その対象が真理であるかどうか、疑問に思うわけです。でも信仰の事柄は真理であると証明することはできません。そこで疑いに対する対処の方法は、聖書が語ることは真理であると考えることができるかどうか、追求することです。

 それは聖書を読み、その内容が真理であると確信することにより、疑いに対処できると今、考えています。疑いが深ければ、真理はそれにまさることを聖書を読みながら確信するのです。それが疑いに対する私の対処法だと最近思うようになりました。聖書は人間について深いことを語っていると思えるとき、聖書は真理だと思うことが時々あります。

 私は英国の故マルチン・ロイド・ジョンズ牧師の聖書講解の書物を読むと、聖書が語ることの深さ、そして聖書は真理であるといよいよ確信する経験をします。

 疑いが生じる、それは聖書が真理であることを信じることへの挑戦です。疑うことは不信仰ではないと考えます。疑いは、聖書が真理であることを知ることへの招きです。そんな風に受けとめます。

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