疑う心、これは私にとっての「とげ」と考えます。私の心にスキがあるので、サタンは疑う心を、私の心の中に送ったと考えます。私の心のスキ、それは確信をもって信じたいとの思いです。信じて大丈夫だという安心感を私は欲するのです。信じるなら誰だって疑わずに一途に確信をもって信じたいと考えるのではないでしょうか。そこでサタンは、疑う心を私の心の中に送り、私を動揺させようとします。
なおサタンなど考えず、自分自身の信じる心が弱いから疑う心が生じるという理解もあると思います。信念の弱さです。しかし聖書は悪しき勢力を語ります。
エフェソ 6:10~11
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
そもそも私たちが罪を犯すことにおいても、罪を犯すように働きかける力があることは忘れてはならないと思います。
信仰者には悪魔との戦いがあります。疑う心をなくすのは悪魔との闘い、霊的な戦いと理解します。私が頼りにするのは主の偉大な力です。主の偉大な力は、神の武具を通して働きます。エフェソ書6章に神の武具が書かれています。
神の武具には、「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音を告げる準備という履物」「信仰の盾」「救いの兜」「霊の剣」があります。
私が特に必要とするのは、真理の帯、信仰の盾そして霊の剣です。
私は真理の帯を締めます。真理である神の言葉、キリストによる救いを帯として締めます。悪魔がもたらす疑いの火の矢を「私は信じる」と信仰の盾で受けとめ、み言葉という霊の剣を持ち、御言葉をもって悪魔に切りつけ、戦います。自分が何を信じているのか、自分に確認します。讃美歌は力になります。信仰を表明するからです。讃美歌を歌うことは信仰の表明となります。
大げさな表現かもしれませんが、自分は何よりも信仰者であること、何を信じるのかを明確にすること、そして「ここに立つ」と自分の態度をはっきりさせ続けることの大切さを思います。