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隠退牧師 holala によるブログ

信仰生活の出発点(7/7)罪との戦いを始めるとき

 信仰生活の出発点は、考え方によって色々と考えることができます。公式的には、洗礼を受けた時が出発点です。信仰が何か分からないままの洗礼を受けたという人もいます。その人が実質的に信仰の歩みを始めた時を出発点と呼ぶこともできます。

 私が今回信仰生活の出発点と考えたのは、罪に立ち向かう信仰の歩みを始める時を出発点としたいと思ったからです。4つのことに心を留めたいと思います。

 第一に「私」と「私の心」の区別です。自分の行動を最終的に意志決定する自分を「私」とします。「私」には心があります。「私」は自分の心がどのような状態にあるかを観察することができます。だから「私」=「私の心」ではありません。区別できます。

 第二に「私」は罪から解放されていると信じることです。イエス・キリストを信じる人は罪から解放されている、これは福音のメッセージです。聖書に書かれています。「私」は罪を犯したいとは考えません。神に信頼し、御心に従って歩みたいと考えます。

 第三に「私」に罪を犯すように働きかける「力」があることを認めることです。聖書はそれを罪と呼びます。神の戒めに背く行為を罪と呼ぶこともあります。罪は、私の体を通して「私」に働きかけます。目から色々な情報が入ってきます。自分が置かれた状況に対して心が反応します。恐れを感じたり、喜びを感じたり、怒りを感じたり。不安を感じたり、いろいろです。心には、「こうしようか、ああしようか」などの思いが浮かんできます。罪が私の体を通して働くとき、私の心は、罪の思いに支配されることがあります。そこでどうするか、です。罪に傾く心に対して、「違う」と「私」は言い、行動することができるか否か。ここに罪との戦いがあります。

 第四に聖書の言葉、聖霊の助けです。聖書の言葉に親しみ、聖書の言葉を神の言葉と信じさせてくれるのは聖霊の働きです。私たちが聖書の言葉を神の言葉と信じ、聖書の色々な言葉を霊の剣(エフェソ6:17)にすることができます。み言葉に従うように聖霊は励ましてくれます。聖霊の助け、導きを求めて祈ることは大切です。

 私は罪深いと語るキリスト者がいます。その方は、自分の心に渦巻く思いを見て、自分は罪深いと考えられるのだと思います。「私」と「私の心」を区別します。人間の心は、生きてある限り、罪の思いが消えることはありません。なぜなら罪が体を通して働きかけるからです。罪深いのは「私の心」であって、「私」ではありません。この区別は大切だと私は考えています。この「私」は、イエス・キリストを信じることにより、義とされています。

 

エフェソ 6:10~18
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

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