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隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(33)罪から解放されて生きる-6

  前回お話しした罪認識は、神の御心に反する行いをしたという認識でした。行動に対する罪認識です。今回お話しする罪認識は存在としての罪認識です。自分は罪深い存在であるとの認識です。これを一番はっきり示しているのは詩編51にあるダビデの祈りです。

詩編 51:7
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

 自分が姦淫と殺人を犯したことの自覚がなかったダビデは、家来のナタンにより自分の罪を知らされました。ダビデは自分の罪を思い知らされました。それまでのダビデには自分は信仰者としてよくやっているとの思いがあったと推測します。ペリシテとの戦いでは、いつも神さまの導きを祈り求めて闘い、勝利を得てきました。神の導きなしには行動できないとダビデは考えるほど神さまに信頼していました。

 しかしいつのまにか傲慢になり、大それた罪を犯しても気づかないほどの心になっていたことを思い知らされました。自分の内には善いものは何もない、いや自分は罪のかたまり、罪そのものであると思ったのではないかと推測します。そのことが「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」で表現されています。

 自分自身が罪深い存在であるとの認識、これが二番目の罪認識です。ハイデルベルク信仰問答にはこのことについて、次のように教えています。

わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。

 前々回書きましたが、人が生まれる前から罪深い存在だとしてもそれは神のせいではありません。人間は生まれる前から罪の支配下にあるのです。

 どのようにして人はこの第二の罪認識を持つようになるのでしょうか。人それぞれです。それは聖霊の働きによるということができると思います。

 私の場合、信仰は神との交わりに生きることであると考えるようになったことがきっかけでした。交わりに生きるためにはお互いの心を尊重することが大切になります。このことなしに交わりは成立しません。交わりに生きる、言い換えると愛しあうです。

 神さまは愛であり、私の心を神さまはご存じであると私は信じます。多くの信仰者もそう信じていると思います。では私たちはどれほど神さまの御心に関心を持っているのでしょうか。神さまがいかなる方か、神さまの御心はどのようなものであるのか、それを知るためには聖書を読まなければなりません。

 神との交わりに生きようとして分かることは、自分は神の御心を重要視してこなかったということです。そして今でも十分に大切にしているかと言われたら、心がけてはいるが、十分だとは言えません。神の御心より、自分の思いを優先させることがあります。また神に祈り、聖書を読み、礼拝をしてきましたが、神の御心を大切にすることが十分ではありません。このことを知った時、自分の罪の深さを思い知らされたことでした。私自身は、聖霊によって悟らされたと受けとめています。

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バラかな? 馬見丘陵公園にて