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隠退牧師 holala によるブログ

信仰と理性

 今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。

ローマ 6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 パウロは「信じなさい」とは言わないのです。「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」ことは信仰の事柄であり、本来ならこれを信じて生きていくことになります。信仰とは、信じたことに基づき生きていくことを意味します。信仰はただ認識するだけはなく、認識したことを受け入れ、それを前提にして生きることを意味します。

 私は聖書が語る終末の事柄は信じますが、今ひとつ信じがたいという面があることも事実です。でも、信じがたいからと言って、聖書が語る終末の事柄を無視することはしません。私自身は、終末があると「考えて」信仰の歩みをしています。

 聖書が語ることは、時に信じがたいことがあります。それなら信じなくてよいのかと言われると、それは違うと思います。自分が信じられることが真理であり、自分が信じられないことは真理ではない、とは言えません。何が真理かを決めるのは私ではありません。

 聖書は神の言葉、真理である、これが信仰者の立場です。だからといって、聖書が語り、信仰者が信ずべきこととされることをすべて信じることができるわけではありません。信仰者として私たちが未熟なためにまだ信じることができないこともあります。

 だから、信じたいけどまだ「信じる」とは言えないことについては、まず聖書が語ることは真理だと「考えて」生きていくことが謙遜な歩みになると考えます。真理だと考えて歩んでいると、やがて真理だと思えるとき、信じることができるときが来ます。信じられないからと言って、突き放してしまうとそこで信仰の歩みは停滞することになります。

 パウロが「考えなさい」という時、彼はとても理性的であると思います。ここにはパウロの配慮が現れています。信仰と理性は矛盾しません。世の多くの人は信じられないからといって神を信じようとしません。これは聖書から見れば、自分自身を真理の判断の基準にするという傲慢な態度となります。

立山 2012.8