私たちは何事かを信じる時、信じて間違いないという確かさを求めるのではないでしょうか。そうすれば安心して信じることができます。しかし聖書が告げる「信じる」は、確かさを伴う「信じる」とは限らないと思います。
今日もヨハネ福音書10章を読んで考えさせられました。
すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。
ユダヤ人はイエス様が神から遣わされたメシアであることを信じようとはしませんでした。そこで「私たちがあなたを信じることができるように、何かもっとはっきりしたものを示せ」と言ったように思えます。するとイエス様は答えられます。
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
イエス様はユダヤ人の要求には応えません。誰もがイエス様は神から遣わされたと認めるような絶対的な証拠というものはないからです。あるのは「しるし」です。イエス様が行う業は、イエス様がメシアであることを指し示す「しるし」です。このしるしが、イエス様を証ししているというのです。この場合は、イエス様が盲人の目を見えるようにしたという出来事です。この出来事は、自分が神から遣わされたしるしだとイエス様は語ります。
このしるしを信じてイエス様をメシアと認めるか、しるしを認めずイエス様を信じないか、です。
信じるとは、信じることを「選ぶ」ことといえます。そこには信じて大丈夫かという不安や本当だろうかという疑いがあるかもしれません。疑い、不安があるけれど信じることを選ぶのか。疑い、不安があるので信じないのか。それが問われます。信じるとは、信じることを「選ぶ」ことだと私は考えています。それは行動となって現れます。
私自身は、終末の事柄を信じるのに苦労しました。現代人である私には、終末の事柄は絵空事に見えるのです。聖書が書いていることですから、絵空事と言って信じない立場は取りません。信じたいのです。どうしたら確信をもって信じることができるのか、悩みました。
この世の中で、本当に信じることのできるものは何かと考えた時、私には、聖書が語ることこそ、信じるに足ると考え、私は聖書に親しみ、聖書の言葉によって物事を考えるようにしてきました。
その聖書が語ること、終末の事柄を信じることに苦労しました。そして得た結論は、信じるとは、信じるに足る根拠、証拠があって信じるのではないこと、信じるとは、信じることを選ぶことだと考えるようになりました。不安や疑いがあったとしても信じることを選ぶことだ、と私は考えます。
そして大切なことは、信じることは人間の決断に終わりません。聖霊の賜物ということができます。聖霊が信じるように私たちを導き、励ましてくださるということです。私の好きな聖句を紹介します。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)。