聖書 ルカ 7:18〜
説教 わたしにつまずかない者は幸い
→聖書はイエスと呼ばれる人が、私どもの救い主であることを告げています。
- イエス様は救い主として私どものために何をしてくださったのでしょうか。
- 救いとして何を与えてくださったのでしょうか。
- イエス様が救いとして、A、B、C、D、Eの五つのものを与えてくださっているとします。
- ところがあなたは、A、B、Cの三つしか受け取っていないとしたら、
- あるいは、あなたはAの一つしか受け取っていないとしたら、
- それはどういうことでしょうか。
- それは残念なことだと思いませんか。
- あなたの信仰生活はもっと幸いなものになるのに、そうなっていないからです。
- 何を救いとして与えてくださっているのか知ることはとても重要だと考えます。
→今日の聖書でイエス様は言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである」。
→つまずくとは、転ぶことです。倒れることです。
- 倒れ方がひどいと、立ち上がることができません。
- けがをすれば、なかなか立ち上がることができません。
- すぐに起き上がれば、再び歩き始めることができます。
- 私たちの日常生活でも、石に足を取られたり
- 段差に気づかずに転ぶことがあります。
→イエス様が言うつまずきとは、信仰が崩れることを言います。
- つまずくとは、信仰が崩れることを意味します。
- たとえば、十字架にかかる前の晩、イエス様は弟子たちに言いました。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」(マタイ26:31)。
- イエス様が捕まったとき弟子たちがイエス様を見捨てることを予告したのです。
- イエス様を見捨ててしまったら、イエス様との関係が切れます。
- 実際、弟子たちはイエス様を見捨ててしまいました。
- また、イエス様の語った種まきのたとえがあります。
- こんな言葉があります。
「御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」(マタイ13:20)。
- 信仰に生きようと思っていても、困難、迫害が起きると信仰を捨ててしまうのです。
→イエス様が言う躓きとは、信仰に入らないことを選ぶことを言います。
- 聖書に書かれている奇跡物語、これが現代人にはつまずきとなります。
- 奇跡が信じられないから、信仰を持つ気持ちになれないのです。
- そして今日の聖書では、ヨハネが、主イエス様を信じない可能性が生じています。
→イエス様につまずかない人は幸いです。
- イエス様が与えたもう救いを全部受け取る人、その人は幸いです。
- 私どもの心にある思いが、石となり、段差となり、私どもがイエス様を信じることを妨げることがあるのです。
- しかし、転ぶことなくつまずくことなく、イエス様を信じ、信仰に生きる人は幸いであるとイエス様は語られました。
→今日の聖書には、ヨハネが登場します。
- 洗礼者ヨハネと呼ばれる人です。
- 彼は生まれたときから聖霊に満ちた人でした。
- そして救い主に先立って、救い主メシアの到来に備える働きをした人です。
- 27節に書かれている通りです。
- 「 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ」。
→
ヨハネは人々を悔い改めに導き、メシアの到来の準備をしたのです。
- 彼は言います。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:7)。
- ヨハネは終末が間近いと信じていたのです。
- 終末、世界の終わりです。
- イスラエルという国は、巨大な帝国に支配されることがずっと続きました。
- そこでイスラエルの人々は、神がイスラエルをその支配から救い、イスラエルを栄光に輝く国家に復興する日の到来を待ち望んでいました。
- その日は、裁きの時でもあります。
- 神の怒りを免れる人が、栄光に輝くイスラエルの国民となるのです。
- そこで、神の怒りが迫っているからと語り、人々を悔い改めに導いたのです。
- そして、洗礼を受ける者には罪の赦しが与えられると語ったのでした。
→ヨハネは人々から、あなたがメシアかと聞かれたことがあります。
- 人々はヨハネこそ、救い主メシアではないかと思ったのです。
- ところが私の後から来る方は私よりも優れている、その人こそメシアであると述べたのです。
→そのヨハネは今、捕らえられて獄に入れられています。
- ヨハネの弟子たちはイエス様の活動を伝えます。
- そこでヨハネは、このイエス様がメシアかどうか、判断できないでいます。
- イエス様の活動が、ヨハネが考えるメシア像とは違っているようなのです。
- イエス様の働きはすばらしい、しかし、メシアと考えてよいのかどうか、ヨハネは迷うのです。
- そして弟子をイエス様のもとに遣わし、弟子たちに言わせるのです。
- 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
→その時、「イエス様は病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」。
- そこでイエス様は答えます。
- 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
- これがイエス様の答えでした。
- ヨハネに自分で判断しなさいと伝えたのです。
- イエス様がなさった働き、これは奇跡以上のものです。
- 誰もがしたことのないようなことです。
→そして言います。「わたしにつまずかない人は幸いである」。
- ここには、神が今、働き、苦しんでいる人を救っているという現実があります。
- これはメシアの働きに他ならないとイエス様は暗黙のうちに語っているのです。
→ヨハネはメシアに先立って活動する、メシアの先駆者です。
- ヨハネは人々に言います。
- 「神の怒りが迫っているから悔い改めなさい」。
- イエス様も言います。
- 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
- 両者とも、人々に悔い改めるように語ります。
- 悔い改める理由が違います。
- ヨハネは、神の怒りを受けないですむように悔い改めなさいと言うのです。
- 神が嫌われる悪いことはやめなさい、というのです。
- イエス様は、私のもとに来なさいと呼びかけるのです。
- 神は今、苦しんでいる人を救っている。この神のもとに来なさいと呼びかけるのです。
- 神と無関係に生きていた者が神のもとに立ち帰る、これを悔い改めとイエス様は考えるのです。
- 両者の考えはだいぶ違います。
→イエス様は自分の使命についてこう述べておられます。
- 主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、貧しい人に福音を告げ知らせるため。
- そしてこれらが今現実になっていますよ、とヨハネの弟子に述べたのです。
- わたしがメシアかどうか、それはあなたが判断しなさい。
- そして言います。「わたしにつまずかない人は幸いである」。
- イエス様が誰なのか、メシアなのかどうか、自分で判断するようにイエス様は言うのです。
→実は、私どももまた、イエス様が語りかける声を聞くことができるのです。
- 主イエスは私どもの目を開いてくださる方なのです。
「イエス様は言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」(ヨハネ9:39)。
- 見えない者が見えるようになるというのです。
- これに対して、見えないのに見えると言うところにあなたの罪はあるとも言われるのです。
「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(コリント二4:4)。
- 富、名誉、快楽が我々の目をくらまし、イエス様が救い主であることがわからなくされているのです。
→主イエスは私どもの耳を開いてくださる方です。
「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5:25)。
- この言葉は、私どもが、神の子の声を聞くことによって、死んでいたのに生きる者となるということが言われています。
- 聖書が神の言葉であり、聖書の言葉が自分をまことに生かすことを知った人は、聖書の言葉を聞く以前に戻りたいとは思いません。
- なぜなら、それは死んだ状態に等しいからです。
- イエス様は、イエス様の声を聞くことができるようにしてくださるのです。
- 私たちを生き返らせてくださるのです。
→このような神の働きがイエス様を通してなされているのです。
- あなたはわたしのことをどう思うのかとイエス様は言われるのです。
- そして「わたしにつまずかない人は幸いである」。
→イスラエルの民は、どのようにして神と出会ったのでしょうか。
- 彼らはエジプトの国で奴隷として苦しい生活をしていました。
- その奴隷の苦しみから神は彼らを解放されたのです。
- これが救いのモデル、原型です。
- 神が与えてくれる救い、主イエス様が十字架の死を通して我々に与えてくださる救い、
- それは解放であり、自由です。
- あなたは自由ですか。何かに捕らわれて苦しくないですか。
→もし罪というものがあるとするなら、それは何でしょうか。
- 神が一方的に私どもに提供してくださっている救いを受け取らないことです。
- 私どもに救いを提供してくださっている神を認めない、信じないことです。
- あなたは神がどんな救いを与えてくださっているか、知っていますか。
- あなたの目を開き、耳を開き、死んでいたあなたを生かすのです。
- 様々な縄目で不自由きわまりない状態から、あなたを自由にするのです。
- 「わたしにつまずかない者は幸いである」。
- イエス様は今も私どもに語りかけておられるのです。
祈り
天の父、あなたは救い主を送ってくださいました。救いの恵み、それは何よりも自由であり、解放です。罪の赦しも罪からの解放がなければ気休めに過ぎません。真理はあなたを自由にするとイエス様が言われましたが、自由こそ救いであることを教えてください。そして一人一人が自分の中にある縄目からの自由をあなたの手から受け取ることができますように助けてください。自分の捕らわれに対する気づきも与えてください。自由にされ、心からあなたを賛美できように導いてください。-+