聖書 ルカ 9:18〜27
説教 イエスに従う
→信仰の世界に入ることに、不安を覚えることがあるかも知れません。
- 信仰に入ってそんなことがあるのと驚くことがあるかも知れないからです。
- 今日の聖書では、そのような驚きあるいは不安、恐れに直面した弟子たちが登場します。
→イエス様がひとりで祈っていました。
- 何を祈っていたのかは明らかではありません。
- イエス様は、何かをする前によく祈る習慣を持っておりました。
- 12人の弟子を選ぶ時にも、山に行って祈って夜を明かされたことがあります。
- ここでは弟子たちの信仰のために祈っていたのではないかと思います。
- 弟子たちがイエス様のことを正しく知ってくれるように
- と祈っていたのではないかと思います。
- 信仰は神様から与えられるものであるからです。
→イエス様は弟子たちに質問します。
- 「群集は、わたしのことを何者だと言っているか」。
- イエス様は病気を癒やし、悪霊を追い出し、権威ある教えを説いていました。
- イエス様が、足の不自由な人に向かって命じます。
- 「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。
- するとその人が立ち上がり歩き出します。
- それを見た群集は、神を賛美し、「今日、驚くべきことを見た」と言います。
- やもめの一人息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところに出会ったイエス様は、
- 「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と死んだ若者に命じました。
- すると死人が起き上がったのです。
- 人々は神を賛美し、「大預言者が我々の間に現れた」と言いました。
- イエス様は人々の注目の的になっていました。
- またイエス様は罪深い女性に「あなたの罪は赦された」と語りました。
- すると人々は、「罪まで赦すこの人は何者だろう」と考え始めたとあります。
- イエス様は一体誰なのか、これは重要な問です。
→「群集は、わたしのことを何者だと言っているか」。
- イエス様の問に対して、群集の考えを弟子たちが述べます。
- 「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤ」あるいは「昔の預言者が生き返ったのだ」。
- 群集はイエス様について様々なことを述べました。
- 9章7節以下では、イエス様の評判を聞いた領主ヘロデが、
- 「一体、何者だろう。耳に入ってくるこんな噂の主は」と述べています。
- 洗礼者ヨハネはイエス様が活動を始める前に、イスラエルの民に説教をしました。
- 多くの民が、ヨハネから罪の赦しを得るために洗礼を受けました。
- ヨハネは神の偉大な使いと見なされていたのです。
- エリヤは昔の預言者ですが、救い主が到来する前にもう一度この世に来ると信じられていた人物です。
- 群集はイエス様が、特別な人物であると認めていました。
→そこでイエス様は弟子たちに向かって尋ねます。
- 20節。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。
- イエス様がなぜ、この時、このような質問をされたのでしょうか。
- 弟子たちはイエス様と一緒に行動してきました。
- イエス様の奇跡を目撃し、イエス様の教えを聞きました。
- イエス様から力を与えられて弟子たちも病人を癒やすなどの奇跡を行いました。
- 弟子たちもまた、イエス様って何者だろうと考えていたに違いないのです。
- この時、なぜイエス様は弟子たちに尋ねたのでしょうか。
- イエス様がどのような方なのかを弟子たちに知って欲しかったからです。
- イエス様のことを正しく知って欲しかったからです。
- 弟子たちはイエス様についてある程度は知っていたのです。
- さらにもっと知って欲しかったのです。
- イエス様はこれからエルサレムに向かいます。
- エルサレムで、イエス様はご自身の死を迎えます。
- イエス様は弟子たちに、メシアとしての真の働きについて知って欲しかったのです。
→ペトロは答えます。
- 「神からのメシア」です。
- メシアというのは「救い主」の意味です。
- イスラエルの国は、強大な外国に支配される時期が多くありました。
- その支配の下で苦しみ、その支配からの解放を熱望していました。
- 国家の独立はイスラエルの民の願いです。
- 自分たちを解放し、イスラエルの国を再興する救い主の登場を人々は待っていました。
- ペトロが「神からのメシア」と答えた時、ペトロはそのようなメシアを考えていました。
- なぜなら、ペトロが知っているイエス様は奇跡を行い、素晴らしい教えを説く人物であったからです。
→ペトロが答えると今度はイエス様が弟子たちに言います。
- イエス様は「このことをだれにも話さないように」と注意を与えた上で
- 22節。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。
- イエス様は苦しみを受けて殺されるというのです。
- これは弟子たちにとって思いがけない言葉ではないでしょうか。
- ペトロが思い描くメシアとは全く違うメシアの姿です。
- イエス様は、弟子たちにメシアとはどのような存在かを教えようとするのです。
- イエス様がどのようなメシアなのかを伝えようとするのです。
→しかし、その内容は弟子たちにとって驚くべき、また不吉な内容でした。
- イエス様は、宗教指導者たちから排斥され、殺されるというのです。
- イエス様が殺される。!
- そんなことがあっていいのか。
- これをどう受けとめたらいいのでしょうか。
- 人々を惹きつける権威ある教えを説き、病気を癒やし悪霊を追い出す、
- 救い主であるイエス様が、殺されるというのです。
- じゃあ、これまでの働きは何のためだったのだ、と弟子たちは考えるでしょう。
- これまでは、弟子たちにとってイエス様と一緒に行動することが誇らしく、喜びでした。
- そのイエス様が死ぬ!
- 弟子たちは耳を疑ったことでしょう。
- わたしたちは、どうしたらいいの。
- 弟子たちは不安に襲われ、恐れを感じ、混乱に陥ったでしょう。
- ただルカ福音書は、この弟子たちのとまどいを少しも書き表してはいません。
- 淡々とイエス様は教えておられます。
→その弟子たちの不安、恐れ、混乱に追い打ちをかけるかのように、イエス様は言葉を続けます。
- 「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
- 自分を捨てる? 十字架を背負う?
- 一体これは何なのだ。
- とても大変なこと、しんどいことをしなければならないように思えます。
- 弟子たちは、イエス様が何を語っているのか意味も分からず、
- 頭は真っ白になったに違いありません。
- 茫然自失としたことでしょう。
→イエス様は、ご自分の苦難と死を3回語ります。
→さらに弟子たちを追い詰めるかのような言葉が続きます。
- 26節には、イエス様とイエス様の言葉を恥じる者のことが書かれています。
- 「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とイエス様は命じました。
- 自分を捨てること、十字架を背負うことを拒む者は、
- イエス様を恥じる者、主の言葉を恥じる者だと言うのです。
- なあにこれ。待って、何よこれ。弟子たちは何が何だか分からなくなった、
- そのように想像します。
- 弟子たちにできる精一杯のことは、イエス様が語ったことを記憶にとどめることでした。
→これから信仰を持とうと思っている人は、驚くのではないでしょうか。
- 自分を捨て、自分の十字架を背負いなさい、と命じられるのです。
- 信仰に入ることにためらう思いが湧いてくるのではないでしょうか。
- 信仰者は、このイエス様の言葉は聖書にないものと考えてしまうかも知れません。
- あるいは、苦しい出来事に直面したとき、そうだ、自分の十字架を背負うのだと考え、背負ってこられた方もおられるでしょう。
- 十字架を負うというのは、誰もが経験するような苦しみを忍耐することではありません。
- 神さまのために生きる時に味わう苦しみを忍耐することを意味します。
- 信仰ゆえの苦しみです。
- 信仰を持たなければ味わわなくてすむ苦しみです。
- この苦しみを覚悟しなさいと言うのです。
- そう簡単に受け入れることのできる言葉ではありません。
- 老いの時期をどう生きるか。
- 老いを受け入れ、孤独や寂しさ、死に直面して生きる、
- 史を越える希望をいかにもつのか、
- これも信仰者の負う十字架です。
→ここで大切なことは、自分を捨て十字架を背負ったのは、
- イエス様ご自身であったことです。
- 神様の計画のために自分の命を捨てたのがイエス様ご自身でした。
- 十字架につけられる前の夜、イエス様はゲッセマネの園で祈りました。
- 「父よ、私の願いではなく、御心のままに行ってください」と祈りました。
- 自分の思いではなく、神の御心の実現を大切にするイエス様の思いが表れています。
- こうしてイエス様は、捕らえられ、裁判を受け、むち打たれ、
- 十字架の死を遂げられました。
- 死刑場であるゴルゴダの丘の途中までですが、ご自分の十字架を背負ったのです。
→イエス様は、わたしについてきたい者は、わたしと同じ目に遭うことを覚悟しなさい、と命じたのです。
- 重いなあ、しんどいなあと思われるでしょう。
- 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、
- 何の得があろうか」とイエス様は述べました。
- 荒野の誘惑で、悪魔はイエス様に言いました。
- 「わたしを拝めば、全世界をあなたに与える」。
- 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とイエス様は悪魔の誘いを拒みました。
- イエス様は神に祈り、神の御心を大切にし、
- 神の御心に生きることを、ご自分の生き方とされたのです。
- ある時、わたしの食べ物は、「神の御心を行うことだ」とさえ語りました。
- イエス様は神との交わりに生きていたのです。
- イエス様は十字架で死にました。
- 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。
- イエス様の死は、人類に救いをもたらす死であり、
- イエス様を信じる者たちは、イエス様によって救われ、神を崇める者となりました。
- イエス様は復活し、今も生きて、信仰者を生かしてくださっています。
→イエス様を信じる者は、イエス様がどのようなお方であるかを
正しく知ることが大切です。
- なぜなら、わたしたちの信仰が、イエス様との交わりに生きる信仰だからです。
- 交わりに生きるということは、イエス様のお心を大切に考えることです。
- 自分の願いだけかなえていただけばよいと考えるのでは、交わりは生まれません。
- 自分のために何かをしてくれるイエス様を信じる信仰というのは、ゆがんだ信仰です。
- 確かにイエス様は、わたしたちの罪を赦してくださいます。
- わたしたちの祈りを聞いてくださいます。
- わたしたちを守ってくださいます。
- 恵みをもって私たちを愛してくださいます。
- そこで私たちもイエス様を愛し、イエス様のお心を知り、
- イエス様のお心に従って歩もうとするのです。
- このような交わりに生きるのが、イエス様を信じる信仰、
- 聖書が教える信仰なのです。
- この信仰に生きることが、本当に幸いなのです。
- 交わりに生きるためには、相手をよく知らなければなりません。
- 相手を誤解していては、よい交わりを持つことはできません。
- ヨハネ第一の手紙の最初にこうあります。
- 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
- 私たちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と手紙を書く理由を述べています。
- イエス・キリストとの交わりに生きることは、
- 喜びに満ちあふれて生きることなんだ、と述べているのです。
- だから、イエス様はここで、ご自分のことを語られるのです。
→イエス様はご自分の苦難と死の予告を3回しています。
- ルカは、2回目と3回目の予告で、イエス様の苦しみと死の意味は、
- 弟子たちには隠されていて、弟子たちには理解できなかったと書いています。
- この時点では、イエス様の苦難と死、それが何を意味しているのか
- 弟子たちには理解できていないのです。
- 弟子たちが理解するのはイエス様が復活してからです。
- 復活したイエス様が、弟子たちに聖書を教えている時、
- 弟子たちの目が開け、弟子たちはイエス様の死の意味を理解したのです。
- そして弟子たちは、迫害を恐れることなく、伝道に励みました。
→弟子たちはイエス様との交わりに生き、
- 主イエスのお心に生きることを光栄とし、喜びとするようになったのです。
- イエス様は、わたしに従って来なさいと命じられます。
- それはわたしとの交わりに生きなさい、との命令です。
- イエス様に従うことは、何も恐いことはありません。不安なこともありません。
- 恐れがあったとしても、不安があったとしてもなお平安なのです。
- イエス様との交わりという何ものにも代えがたい喜びがあるのです。
- この喜びへわたしたちを招くイエス様は、
- 「わたしに従いなさい」と呼びかけておられるのです。
祈り
天の父、聖書が教える信仰は、神さまとの交わりに生きる信仰であることを教えてください。神さまとの交わりであるから、苦しいときも辛いときも、生きることのできることを教えてください。自分の無力さ、老いを受け入れることのできることを教えてください。
何よりも、あなたとの交わりそのものが喜びであり支えであることを教えてください。イエス様に従うとは、イエス様との交わりに生きることであることを教えてください。この交わりに生きることを喜ぶ者は、その喜びを証しできるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。