聖書 ルカ 9:10〜17
説教 イエス様ってだれ
→今日からまたルカ福音書による説教を始めたいと思います。
- 今日の聖書は、人里離れた場所に沢山の人々が集ってきます。
- そして主イエスは、大勢の人にパンを与えて満腹させたという物語です。
- そこにいたのは男が5千人とあります。
- 五千人が集う。どれほどの広さになるのでしょうか。
- 紅白歌合戦が行われたNHKホールは、約3,700人の座席があるそうです。
- 相撲が行われる国技館は、約11,000人、収容できるようです。
- 仮に男が五千人、その他、女性・子供が5千人いたとすると、全部で1万人。
- すると主イエスは、国技館で神の国について語り、病気を癒やされ、
- そして、そこにいた人々にパンを配ったということになります。
- 主イエスがいた場所は人里離れた場所で、広い野原だったと思います。
- 沢山の人が主イエスを囲み、話を聞き、
- あるいは列を作って病気を癒やしてもらっていたのです。
→主イエスは12名の弟子を派遣して、神の国を宣べ伝え、病人を癒やさせました。
- 弟子たちは、出かけて行き、村から村へ巡り歩きながら、
- 福音を伝え、病気を癒やしました。
- その弟子たちが戻ってきたところから今日の話が始まります。
- 主イエスは弟子たちを連れ、ベトサイダという町に退かれたとあります。
- 一緒に食事をし、弟子たちの労をねぎらい、休息を取るつもりだったのでしょう。
- しかし大勢の群集が主イエスのあとを追いかけます。
- 病気の人が多いのでしょう。癒やしてもらいたくて主イエスの後を追うのです。
- あるいは、イエスの教えは人々の心を惹きつけましたから、
- もっと話を聞きたいということで、主イエスの後を追ってきたのです。
- そうこうしているうちに、日が傾きかけました。
→12節。12人はそばに来て主イエスに言います。
- 「群集を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、
- 食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れたところにいるのです」。
- 弟子たちの言うことはもっともです。
- こんな場所で夜を過ごすことはできません。
- するとイエスは弟子たちに言うのです。
- 13節。 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。
- 5千人の男たちがいます。見渡せば沢山の人がいるんです。
- 相撲が行われる国技館の真ん中、土俵のあるところにいて、
- 周囲を囲む沢山の人に、食べ物を与えなさいと主イエスが言うのです。
- そんな沢山の食べ物がどこにあるのでしょうか。
→弟子たちは言います。
- 「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません」。
- こんな沢山の人に食べさせるなんて、無理、無理。
- なんて無理なことをイエス様、あなたは言うんですか。
- これが弟子たちの気持ちです。
- 5千人もの人にあげるパンが手元にないことは明らかです。
- それなのになぜ、主イエスは弟子たちに、
- 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われるのでしょうか。
- 不思議だと思いませんか。
→このあと、主イエスは、五つのパンと二匹の魚でもって沢山の人を満腹させます。
- これは明らかに奇跡です。
- 奇跡を行うつもりなら、弟子たちを困らせる必要はないはずです。
- ではなぜ弟子たちに、「あなたがたが与えなさい」と言われたのでしょうか。
→この段落のすぐあと、9章の18節以降がヒントになります。
→今日の段落の最初は、弟子たちが主イエスに派遣され、戻ってきたところです。
- 弟子たちは主イエスから、悪霊を追い出し、病気を癒やす力を与えられ、
- 村々を巡り、病気を癒やしてきたのです。
- そういう力を与えることのできる方って一体だれなんでしょう。
→8章22節以下では、弟子たちが舟に乗って湖を渡ろうとしていました。
- その時、突風が吹いてきて湖は荒れ、舟は転覆しそうになりました。
- あわてふためいた弟子たちは主イエスに助けを求めます。
- すると主イエスは、風と荒波を叱ります。
- すると風は静まり、波も静まり、湖は穏やかになりました。
- その時弟子たちは、言うのです。
- 「この方はどなただろう。命じれば、風も波も従うではないか」。
→弟子たちの心には、この方はどなただろうという疑問があります。
- そして今日の物語の次のところで、
- 主イエスは弟子たちに「わたしを何者だと言うのか」と尋ねます。
- 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と無茶な命令に思えますが、
- 主イエスが命じた時、主イエスは弟子たちに「私はここにいる。それであなたがたはどうするのか」と言っておられるように思えてなりません。
- 主イエスがここにいる、それなら、この群集にパンを配ることができるのではないか、
- 弟子たちがそう考えて行動することを主イエスは願ったのです。
→弟子たちの反応は、無理です、というものでした。
- イエスが共にいるということは、何の力にもならないと言っているかのようです。
- 主は信仰の応答を弟子たちに求めたのです。
- 五つのパンと二匹の魚で、大勢の群集を満腹にさせることは無理に思えます。
- だから、弟子たちが信仰に立てば、次のように言うことができたのではないでしょうか。
- 「主よ、私たちが持っているものは配るには少なすぎて、
- 全員に配ることは無理に思えます。
- でもあなたが彼らに与えなさいとおっしゃるからにはできると信じます。
- どうしたらいいか教えてください」。
- このように主イエスの命令を受けとめ、
- どうすればいいのか主イエスに聞くことができたはずです。
- これが信仰の応答です。
→弟子のペトロが主の弟子になった時のことを思い出してみることも参考になります。
- ルカ福音書の5章に書かれています。
- 漁師のペトロは、一晩中漁をしましたが、一匹も魚を獲ることができませんでした。
- 漁から帰り、網の手入れをしているペトロに向かって
- 主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい」と命じます。
- 明るくなった時間は、漁には不向きなのは漁師の常識です。
- しかし「お言葉ですから、網を降ろしましょう」と言って網を降ろしたとき、
- 何が起きたのでしょうか。
- おびただしい魚が捕れたのです。
→最初から、無理ですと断るのでは、信仰はどこにあるのかと言うことになります。
- 主イエスは、弟子たちに信仰を求めたのです。
- 「『あなたがたが彼らに与えなさい』とおっしゃるからにはできると信じます。
- どうしたらいいか教えてください」。こう言えばよかったのです。
→私たち信仰者の口からも、
- 「無理です、むずかしいです」という言葉が出てくることがあります。
- わたしたちの目の前に主イエスがいるわけではありません。
- でも私たちは「主が共にいてくださる」ことを信じているのではないでしょうか。
- それだったら、安易に「無理です。むずかしいです」と言ってよいのでしょうか。
- 「主よ、どうしたらいいのか、教えてください」と祈り、
- 信仰に立つことが大切なのではないでしょうか。
- すると主がみ業をなしてくださるのだとすれば、
- 信仰に立つことは幸いなことなのではないでしょうか。
- 天使ガブリエルがマリアに現れ、マリアが身ごもることを伝えました。
- マリアがイエス様を身ごもるのです。
- 「どうしてそんなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」
- とマリアが言った時、
- 天使は言います。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:27)。
- これがわたしたちの信仰ではないでしょうか。
- マリアが親類のエリサベトを尋ねた時、エリサベトは言います。
- 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」。
- 神様が「する」と約束したことは必ず実現します。
- それを信じる、それが信仰ではないでしょうか。
- 神様が「しなさい」と命じたことは、私たちには可能です。
- 行う力を神が与えてくださるのです。
- これを私たちは信じるのではないでしょうか。
→「主よ、どうしたらいいのでしょうか」と主イエスに聞けばよかったのです。
- そうすれば彼らを通して、病気が癒やされ、悪霊が追放されたように、
- 彼らは群集に食べ物を与えることができるという体験をすることができたのです。
- 信じるって素晴らしいことだなあ、と体験することができたのです。
- 「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」との主イエスの命令、
- それは、弟子たちを通して働く神の業を体験するようにとの招きだったのです。
→主イエスは弟子たちに、群集を50人ずつの組に分けるように命じます。
- そして五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰いで主イエスは祈ります。
- そしてパンを裂き、魚を裂いて弟子たちに渡し、配らせます。
- その結果、群集は満腹し、さらにパンくずを集めると12籠に入れるほどだったとあります。
- 大いなる奇跡です。
→この時、5千人の男たちは何を見たのでしょう。何を体験したのでしょう。
- 彼らは50人毎に組に分けられます。弟子たちがパンと魚をもって配るのを見ます。
- 弟子たちは何回も、群集と主イエスの間を行ったり来たりします。
- そして群集は、弟子たちから受け取ります。
- 彼らは、五千人もの男たちが皆満腹になったのを見るのです。
- 五千人を満腹させるほどのものを主イエスが持っていたとは思えません。
- パンが五千個あれば、それなりの荷物になります。
- パンが沢山あるはずがないのに、皆が満腹したのです。
- これは驚くべき事態です。
- 何でみんな満腹できるんだ、群集は驚いたはずです。
- 見渡す大勢の人がパンを食べました。
- 自分たちと同じようにみんなが食べ、満腹したのです。
- どこからパンが出てきたのか。
- 主イエスは何をしたのか。
- こんなことができるなんて、イエスってだれなんだ。
- 群集には驚きと疑問が生じました。
- 群集は言うのです。
- 「あれは洗礼者ヨハネだ」いや「エリヤだ」。いや「昔の預言者が生き返ったのだ」
- 群集は口々に言うのです。
- そして言うまでもなく、弟子たちもまた、
- この人は一体だれなんだろう、と思ったはずです。
→この人って誰なんだろう。みんなを満腹させることのできる人は。
- 皆さんはどう思いますか。
- 詩篇の言葉が思い浮かんだ人がいるかも知れませんね。
- 「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」(詩篇23)。
- 主イエスは、わたしたちに欠けるものがないようにしてくださる方
- 食べ物だけではなく、私たちの心をも満たしてくださる方、
- 主イエスはわたしたちを恵みをもって満たしてくださる方、
- これが答えなのではないでしょうか。
→あるいは、このような答えもあるのではないでしょうか。
- この方は、私たちがさし出す小さなものを大きく用いてくださる方
- 私は小さな人間、何もできない信仰者などと思うな。
- 用いてくださいと自分の賜物をさし出すならば、
- わたしを用いてくださいと自分をさし出すなら、豊かに用いてくださる方であると。
- これが答えなのではないでしょうか。
→主イエスは、私たちが信仰に立つことを喜ばれる方。
- 主イエスは、私たちに欠けるものがないようにしてくださるお方です。
- 主イエスは、私たちがさし出すものを豊かに用いてくださる方です。
- そう思う時、賛美が湧いてこないでしょうか。
- 「飼い主わが主よ、迷う我らを 若草の野辺に導き給え
- 我らを守りて養いたまえ、我らは主のもの、主にあがなわる」。
- 祈ります
祈り全能にして憐れみに富みたもう神、
あなたを心から信じることができますように。
私どもは、自分が信じられる範囲にあなたの大きさを小さくしてしまいがちです。
私どもの思いを越えてあなたが大いなる方であるとの信仰を与えてください。
そして信仰の応答ができる者とならせてください。
信仰は、あなたから与えられる賜物です。
あなたを信じる賜物を大きくしてください。
あなたを信じようとしている人がおられましたら、
あなたは人間が納得できるような存在ではなく
人間の思いを越えた方であり、
信仰はあなたから与えられるものであると知り、
あなたに信仰を求めることができるように導いてください。
あなたこそ、真の神と告白し、
あなたに栄光を帰することができますように。
イエス・キリストの御名により祈ります。