聖書 ルカ 8:22〜25
説教 イエスを知る幸い
→今日の聖書は、ある意味、驚くようなことが書いてあります。
- イエスが風と荒波を叱ると荒れていた湖が、静まったというのです。
- こんな事がありうるのか、と誰もが思うでしょう。
- そこで、こんな話はバカバカしいと思われるかも知れません。
- でもちょっと待ってください。
- 今少し、聖書の語ることに耳を傾けてください。
→イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、向こう岸に渡ろうとされました。
- 渡っていくうちにイエスは眠ってしまいます。
- すると突風が吹き下ろしてきました。
- 湖が荒れ始めました。
- 舟は揺れ、水が波となって舟の中に入ってきます。
- 弟子たちは皆不安になります。
- しかしそこにはペトロを初め、漁師たちがいました。
- 漁師たちは「これぐらいなら大丈夫だ」と言ったかも知れません。
- あるいは「これはちょっと注意しなければならない」と言ったかも知れません。
- 弟子たちはどうしたらいいか、言葉を交わしたと思います。
- しかし、舟がひっくり返るかも知れないという恐れが弟子たちを襲います。
- 彼らは慌てふためき、イエスを起こします。
- 「先生、先生、おぼれそうです」。
→イエスは起き上がって、風と荒波を叱ります。
- 「黙れ、静まれ」と命じたのです。
- すると静まって凪になったとあります。
- ひと安心です。
- するとイエスが言います。
- 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。
→信仰は見えるのです。
- 信仰は行いになって現れるのです。
- 弟子たちの姿、恐れに捕らわれ慌てふためく姿に
- イエスは、弟子たちの信仰を見てとることができませんでした。
→でも、ここでいう信仰って具体的に何のことを言うのでしょうか。
- 弟子たちは言うまでもなく、神を信じています。
- 神が守ってくれるという信仰のことでしょうか。
- 神を信じているのに、つまり神に信頼しているのに、
- その狼狽ぶりは、何だとイエスは言っているのでしょうか。
- 私はむしろイエスがこのように言っているように思えます。
- 「私がここにいるのになぜ、恐れに捕らわれ、慌てふためいているのか」。
- 「私がここにいる、このことをどう考えるのか」。
- イエスがそう言っているように思えます。
→弟子たちはこれまでイエスと行動を共にしてきました。
- イエスが言葉を発して、死者を生き返らせたことを弟子たちは見たはずです。
- ナインという町で、イエスは葬儀の列にぶつかりました。
- そして「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(7:14)。
- やもめの一人息子が生き返ったのです。
- あるいは手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言って、手を癒やされました(6:10)。
- 中風で歩けない人に「起き上がりなさい」と言って歩かせています(5:24)。
- これらの出来事を目撃し、イエスの持つ力を弟子たちは知っているのです。
- それなのに、慌てふためくのです。
- だからイエスから「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と咎められたのです。
- 弟子たちはイエスに助けを求めました。
- しかし彼らは取り乱し、他にどうしていいか分からず、イエスに助けを求めただけです。
- そこには信仰は見られなかったのです。
- もし信仰があれば、別な態度を取ったでしょう。
- たとえばイエスに「一言おっしゃってください。そうすれば湖は静まります」。
- このように言うこともできたのです。
- ルカ福音書の7章には、百人隊長と呼ばれる軍人が登場します。
- 彼は自分の部下が病気で死にかかっていました。
- その時彼はイエスに「一言おっしゃってください。
- そして部下をいやしてください」と言ったのです。
- この光景を弟子たちは見ているのです。
- 「あなたがたの信仰はどこにあるのだ」。
- イエスの厳しい言葉に弟子たちは何も言えませんでした。
→そして弟子たちは、互いに言うのです。
- 「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」。
- イエスとは一体誰なのでしょうか。
- どういう存在なのでしょうか。
- 弟子たちには分かりませんでした。
- この問は、私どもにも向けられている問です。
- あなたは、この「命じれば風も波も従うイエス」をどなただと言いますか。
- 「あなたは私のことをどう思うか」と問われたら、あなたはどう答えますか。
→弟子たちは答えることができませんでした。
- このイエスは、やがて十字架の上で死にます。
- さらに三日目に復活をし、弟子たちの前に姿を現します。
- この時も弟子たちは、「一体この方はどなたなのだろう」と言ったと思います。
- 「あなたがたは私のことを何者だというのか」と問います。
- 弟子を代表してペトロは「あなたは神からのメシア」ですと答えます。
- メシア、救い主のことです。
- そのメシアが十字架で死にます。三日目に復活します。
- 一体この方は誰なんだ、何者なんだ、と問うても、
- 弟子たちに答えは見つからないのです。
- やがて復活したイエスが天に戻られ、
- 弟子たちの上に聖霊が降ると弟子たちは悟るのです。
- イエス、この方は「主」である。
- そしてキリストの教会は、イエスは「主」であると告白してきました。
→私たちは、イエスは「主」であると教えられています。
- 「この方は一体どなただ」と聞かれたら、「主です」と答えることはできます。
- でもそれは単なる知識かもしれません。
- 教えられているから答えるだけのことです。
- 私どもが「イエスは主である」と告白できるのは
- 聖霊の働きであると聖書に書かれています。
- 人は聖霊に導かれ、自分の罪に気づかされ、イエスを救い主、主と受け入れます。
- そして洗礼を受け、信仰者になります。
- 聖霊によらなければ、イエスを「主」と知ることはできません。
- いつ私どもはイエスを主と知ることができるのでしょうか。
- 私どもはいつ、イエスを「心」で主と知り、主イエスに従う生活を始めたのでしょうか。
→イエスをどなただと答えるのか、その答えは重要です。
- それを、あなたの心が答えるのです。
- 私どもはイエスをどなただと考えるのかによって、私どもの信仰者としての生き方が決まってくると言ってよいのです。
- あなたがイエスをどう信じるか、それはあなたの生活に現れます。
- 信仰は見えるのです。
- あなたが主イエスをどう信じているのか、見えるのです。
- あなたがもしイエスを「主」であると心から信じているなら、
- 「主よ、あなたの教えはむずかしくて守れません」などとは言えないでしょう。
- あなたがもしイエスを心から「主」であると心から信じているなら、
- イエスに従うことを何よりも大切にするでしょう。
- イエスを何者だと信じるか、それがあなたの信仰生活を決定するのです。
- 神をいかなるかたと信じるか、それがあなたの信仰生活を決定するのです。
→旧約聖書にバビロンという国で、国王に仕えているイスラエルの若者がいます。
- ダニエル書に登場する若者です。
- ある時、彼らは王が信じる金の神の像を拝むように求められます。
- しかし彼らは断ります。
- すると拝まないと燃えさかる炉に入れると脅されます。
- すると彼らは答えるのです。
- 「私たちのお仕えする神は、その燃えさかる炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
- そうでなくても、金の像を拝むことはしません」。
- 彼らは、神が必ず救ってくださることを信じています。
- また仮に燃えさかる炉の中で焼死したとしても、それを受け入れるというのです。
- 救ってくれない神に恨みを言わないし、神に裏切られたとも言わないのです。
- 神にはご計画があって、自分たちが焼死することを受け入れるのです。
- 神はご計画を持っており、信仰者はその計画の中で生かされることを彼らは知っているのです。
- だから、あのように発言することができたのです。
- 神をいかなる方かと信じるか、それがどのような信仰生活をするのかを決めるのです。
→ですから、イエスをいかなるかたと知るのかがとても重要です。
- それはただ知識として知ることとは違います。
- イエスがいかなる方であるかを知識として知ることは大切です。
- そこから信仰生活が始まるからです。
- その知識が心からの知識とならなければなりません。
- パウロはこう述べています。
- 「わたしの主キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさに、
- 今では他の一切を損失とみています」(フィリピ3:8)。
- 続けて、「キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」と述べています。
- キリストを知ることの素晴らしさを述べているのです。
- イエスを知り、イエスと共に歩むことの素晴らしさを彼は高らかに述べているのです。
- あなたは、イエスを知ることがどれほど素晴らしいのか、知りたいと思いませんか。
→「聖霊によらなければ、誰もイエスは主である」とは言えないとあります。
- イエスとはいったいどなたでしょう。
- 「この方は私たちの主」、これが答えです。
- 言い換えると、私どもは、この方のものであるということです。
- 「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。
- パウロはローマの信徒への手紙で書いています。
- イエスについてのすばらしい知識、それは彼がわたしの主であり、私が彼のものだと言うことです。
- イエスについてのすばらしい知識、それは彼が私たちの主であり、私たちが彼のものだということです。
- この知識に到達することが信仰の目標と言ってよいでしょう。
→
「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(フィリピ3:16)
。
- 私どもはイエスを少しでも知ることができたら喜び、さらにもっと知るように前進していけばいいのです。
- 心からイエスがどなたであるのかを少しでも知り、そのイエスと共に生きることを喜べばいいのです。
- この方を主とする生活は、今から始めることができるのです。
- この方を主とする生活をする中で、この方を主と知ることができるようになります。
- 聖書を学び、御言葉に生きる中で、この方を主と知ることができるようになります。
- 聖霊の導きの中で、イエスが主であることが、心の知識となっていきます。
→ハイデルベルク信仰問答と呼ばれる信仰の書物があります。
- この信仰問答の最初にこう書かれています。
- 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。
- 「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、
- わたしの真実な救い主、
- イエス・キリストのものであることです」。
- イエスがわたしの主であり、わたしがイエスのものである、これが生きる時も、そして死ぬ時も、唯一の慰めだというのです。
- あなたはイエスが主であることを知っていますか。
- あなたはイエスが主であることを知りたいですか。
- イエスを主と知る人、その人こそ真に幸いな人です。
祈り
天の父、主イエスがだれであるのか、どんな方であるのか、教えてください。
自分の口から、主イエスはこのような方であると告白し、その告白にふさわしい歩みを行うことができるように導いてください。そしてさらに深く主を知ることができるように導いてください。
特に主イエスに対する信仰をまだ言い表していない方々を導き、主イエスが救い主であることを教えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。