クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

今日は金沢元町教会で地区信徒大会が開催された。
「私たちの希望」と題して、老いに生きる信仰者の希望が語られた。
僕は、開会礼拝を担当した。


聖書 ヨハネ13:34〜35
説教 互いに愛し合う


→今日はヨハネによる福音書の13章を読みました。
私たちの教会は高齢化しており、年をとったために教会に来ることができなくなる人が増えています。
一人一人が孤立した信仰者になりかねません。
同じ教会に属し、長年信仰生活を共にしてきた兄弟姉妹が孤立してゆく、
それは何としても避けなければならないことだと思います。
それゆえにヨハネによる福音書に書かれているイエス様の掟に私たちは
耳を傾けたいと思います。

→34節「あなたがたに新しい掟を与える」とあります。
エス様は「この新しい掟」を誰に与えたのでしょうか。
弟子たちに与えたのでしょうか。そうです。
十字架にかかる前の晩、イエス様は弟子たちに与えられました。
もう一度質問します。
エス様は「この新しい掟」を誰に与えたのでしょうか。
弟子たちに与えたのでしょうか。違います。
では誰に与えられたのでしょうか。
エス様は、私たちに与えられたのです。
エス様は、あなたに与えられたのです。
この新しい掟が、もし私たちに与えられたのではないとしたら、
この新しい掟が、もしあなたに与えられたのではないとしたら、
この聖書の言葉はどんな意味をもっているというのでしょうか。
エス様はこの新しい掟を私たちに、そしてあなたに与えられたのです。
→そして私たちは、「あなたがたに新しい掟を与える」と語りかける
エス様の声を聞くのです。
聞こえませんか。
聖霊の導きの中で、聞くのです。
私たちは心の中で、イエス様ご自身が語りかけるのを聞くのです。
聖書に書かれているイエス様の教えを読むのではありません。
エス様ご自身の語りかけを聞くのです。
聖霊の導きの中で、聞くのです。

→説教を聞くことを、「御言葉を聞く」と言うことがあります。
これは何を言っているのか分からない曖昧な表現です。
おそらく御言葉を聞くとは、説教者を通して神さまが語りかけられると信じ
神さまの語りかけを聞くことを意味しているのだと思います。
つまり私どもは目の前におられる神様が語られると信じて説教を聞くのです。
それと同じようにイエス様ご自身が語っておられると信じて聞くのです。
ここにはイエス様と私たちの間に、人格の出会いがあるのです。
私たちは聖書を読んで、文字を読んでイエス様の掟を理解し、
それを実行するのではありません。
私たちは書かれた掟に従うのではありません。
エス様ご自身の声を聞き、イエス様にお従いするのです。
ここに、イエス様と私たちの人格的交わりがあるのです。
信仰とは、イエス様との交わりに生きることです。
使徒パウロはコリントの教会に向けて語ります。
「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、
私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。

→では新しい掟の内容は何でしょうか。
「互いに愛し合いなさい」です。
互いに愛し合いなさいという掟であれば、この世の人も実行をしています。
たとえば夫婦が、たとえば親子が、たとえば親しい者たち同士が
互いに愛し合う努力をしております。
この世の人と、信仰者が互いに愛し合うとき、何が違うのでしょうか。

→聖書のこの箇所では、「私があなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエス様は語っておられます。
ここで「私があなたがたを愛したように」とあります。
「愛したように」とあります。
この「ように」は二つの意味があります。
第一に、私があなたがたを愛した。あなたがたは私の愛を受けた。
だから今度は、あなたがたも互いに愛し合いなさいというのです。
エス様の愛を受けたことが、互いに愛し合うことの動機、となるのです。
第二にさらにイエス様がどんな風に私たちを愛したのか、それを知り、
私たちもイエス様がなさったように互いに愛し合いなさいということです。

→イエス様はどのように愛されたのでしょうか。
この新しい戒めを与える直前、イエス様は、弟子たちの足を洗われました。
弟子たちの足の汚れをきれいにされたのです。
そして「私があなたがたにした通りにあなたがたもするようにと模範を示したのである」とイエス様はおっしゃいました。
エス様は弟子たちの足の汚れをきれいにされました。
さらに十字架の上でご自分の命を捨て、私たちの罪の贖いの業をなさいます。
エス様は私たちを救うために、私たちに仕えてくださるのです。
ご自分の命を犠牲にして下さるのです。
そのように私たちも互いに仕え合い、互いに自分を犠牲にし、
そのようにして互いに愛し合いなさいとイエス様は教えられたのです。

→私たちが互いに愛し合うために、具体的に何をすべきなのでしょうか。
聖書には「互いに何々しなさい」という教えがたくさん書かれています。
「互いに親切にしなさい」 「互いに赦し合いなさい」
「知恵を尽くして互いに教え合いなさい」「互いに平和に過ごしなさい」
「お互いに善を行うように努めなさい」
「お互いの向上に心がけなさい」
「互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさい」
「お互いに相手のことにも注意を払いなさい」
聖書には互いに何々しなさいという教えがたくさん書かれています。
それを実行しなさいとイエス様はおっしゃるのです。
この互いに愛し合いなさいという掟をイエス様は
さらに繰り返して弟子たちに語られます。

ヨハネ福音書の15章12節
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」 。
15章17節「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」 。
互いに愛し合う、これはイエス様の強い願いです。
この掟を守る事は本当に大事なことであるとイエス様はおっしゃっているのです。

→だから35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを
皆が知るようになる」とイエス様はおっしゃいました。
エス様は私たちがイエス様の弟子となることを求めておられるのです。
私たちが互いに愛し合うことによって、私たちがイエス様の弟子であることを
世の人々が知るようになると言うのです。

→でも、私たちはイエス様の弟子になる必要があるのでしょうか。
互いに愛し合い、私たちがイエス様の弟子であることを世の人が認める、
そこまで私たちはしなければならないのでしょうか。
そもそも世の人たちが、そのように認めたことがあるとは聞いたことがありません。
なぜ私たちは互いに愛し合い、イエス様の弟子と認められる必要があるのでしょうか。
そこまで本当にする必要があるのでしょうか。
こんな思いを皆さんは抱きませんか。

→私たちはなぜイエス様の弟子となるのでしょうか。
エス様がそうおっしゃっているから、それが答えです。
答えは単純です。
でも注意が必要です。
私たちは聖書を読み、イエス様が弟子たちに命じられたことを知ります。
そしてそれは私たちにも向けられたイエス様の言葉であると理解します。
ここで大切なことは、イエス様の言葉を、文字として読むのか、
エス様の語りかけとして聞くのか、この違いです。
私たちが文字として読むと、それはむずかしいとか、そこまでする必要があるのかなど、
色々な理屈が頭の中に浮かんでくるのです。
しかし、イエス様の語りかけとして聞いた場合、
私たちは返事をしなければなりません。
「無理です」「そこまでする必要があるのですか」と言わなければなりません。
あるいは「分かりました。お従いします」と返事をします。
もし、私たちがイエス様の語りかけとして聞くなら、
私たちはイエス様と向き合っているのです。
「無理です」と私たちが言うなら、イエス様は、さらに話しかけられるに違いないのです。

出エジプト記には、奴隷で苦しんでいる人を助け出すために
神さまがモーセを遣わしたことが書かれています。
あの時、モーセは何回も「無理です」と拒んだのです。
神も、モーセに対して語り続けるのです。
たとえばモーセが「私は何者でしょう。なぜ、わたしがイスラエルの民を連れ出さなければならないのですか」と言うと、
神は、「私は必ずあなたと共にいる」と答えられます。
モーセが「私は弁が立つ方ではありません」と拒みます。
すると神は、「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべき言葉を教えよう」とおっしゃるのです。
神とモーセが向き合っているから、言葉が交わされるのです。
しかし、私たちがイエス様の教えを聖書から文字として読むなら、
そして「無理だよな」とか私たちが考えたら、
それでストップです。
そして私たちはイエス様の掟を忘れるのです。なかったことにするのです。

→信仰とは神との交わりです。
神さまと向き合うこと、イエス様と向き合うこと、それが信仰です。
「私はあなたがたに、私の弟子になって欲しい」とイエス様はおっしゃるのです。
エス様に従う者、それがイエス様の弟子です。
エス様はおっしゃいます。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
「友よ、わたしはあなたのために十字架で死んだ」とイエス様はおっしゃるのです。
そのイエス様が、「わたしに従いなさい、私の弟子になりなさい。互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。
この主イエスの言葉にあなたはどう向き合いますか。
エス様の弟子となる人こそ、イエス様との交わりに生きる、幸いな信仰者であり、イエス様の弟子の集う教会こそ、幸いな教会です。

祈り
天の父なる神、
主イエスとの交わりに生きる私たちでありますように。
私たちの教会が、主イエスの弟子の群れである教会でありますように
イエス・キリストの御名により祈ります。