聖書 ルカ 9:37〜45
説教 神の偉大さ
→説教題を「神の偉大さ」とつけました。
- 礼拝予定を予告するために、この説教題は一ヶ月以上も前につけました。
- この聖書箇所を十分学んだ上につけたわけではありません。
- これしかない、と思ってつけました。
- 聖書を何回も読んでも、神の偉大さが少しも伝わってこない、そこから説教準備が始まりました。
→今日は45節まで読んでいただきました。
- 新共同訳聖書は、43節の途中で段落の区切りをもうけています。
- しかし、ギリシャ語の本文には段落の区切りはありません。
- 文章がつづいているのです。
- 予告した聖書箇所を変更して45節まで
- 一つのまとまりとして聖書を読んでいただきました。
→今日の聖書は、イエス様が悪霊に憑かれた子供から悪霊を追い出したという物語です。
- イエス様が悪霊を追い出した話は4章、6章、8章にもありました。
- 今日の聖書で、悪霊を追い出す出来事の最後は、43節
- 「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」と書かれています。
- 「心を打たれた」という言葉は、「圧倒された」と訳せます。
- 人々は、神の偉大さに圧倒されたのです。
- でも私は、そうだ、その通りだ、と説得されないのです。
- 皆さんはどうでしょうか。
- 悪霊を追い出すという経験は、私たちにはあまりないので、
- どう考えたらいいのか分からないところがあります。
- しかし、一人息子が悪霊に取り憑かれている父親は辛く苦しいです。
- 子供を何とかして救ってもらいたいとの思いです。
- そこでイエス様は、悪霊を追い出したのですから、素晴らしい働きをされました。
- それはだれにもできる働きではなく、神の力による働きそのものです。
- ですから神の力は偉大だ、と言われればその通りです。
- でも神の力は偉大だと、この物語を読んでも正直、説得されないし、感動できないのです。
→そこでもう一度ルカ福音書の奇跡物語をたどってみました。
- イエス様の病気の癒やし、あるいは悪霊を追い出すなどの出来事を目撃した人々は、
- 驚いています。
- それは起こりえないことが起きてびっくりした、驚いたという反応というより、
- そこに神がおられ、神が働いているということを感じ取る驚きです。
- 人々の心には神を畏れる思いが湧き、神を賛美しています。
- 今日の聖書では、人々は皆、神の偉大さに心打たれたとあります。
- 神の偉大さに圧倒されたのです。
→そして思います。神の偉大な力に圧倒された人々の中で、最も圧倒されたのは、
- イエス様の弟子たちではないでしょうか。
- 彼らは、イエス様といつも行動を共にしてきました。
- イエス様の行う力ある業を全部見ているのです。
- ある時は驚き、ある時は、神の臨在を感じて恐れを抱き、
- ある時は、賛美が口から出てきた弟子たちが、
- この場面で、誰よりも神の偉大さに圧倒されたと思うのです。
- 「心を打たれた」「圧倒された」、
- それはイエス様の業を皆見た弟子たちにこそあてはまるものではないでしょうか。
→そこで気づかされるのです。
- ルカ福音書を順に説教している私、
- ルカ福音書の説教を順に聞いているあなた、
- あなたもわたしも、イエス様のなさった業をすべて見ているのです。
- 聖書を読む、聖書に聞くという形で、イエス様の業を見ているのです。
- イエス様のなさった力ある業の目撃者なのです。
- もし私たちが、客席から舞台を見るように聖書を読んだのなら、
- 神の偉大さが伝わってこないのではないでしょうか。
- それは向こう側の出来事だからです。
- ただ見ているからです。
→もし、あなたがここに登場する父親だったら、と想像してみませんか。
- あるいは、悪霊に憑かれた男の子をいやそうとして失敗した弟子だったらと想像してみませんか。
- あるいは群衆の一人で野次馬でもいいです。
- あなたは山を下りてきたイエス様を出迎えるのです。
- すると何が起きるのでしょうか。
- 山を下りてきたイエス様に向かって
- 群集の中から一人の男が大声で叫びます。
- イエス様の注意を引きます。
- 何としても一人息子を助けて欲しいのです。
- 「私の子を見てやってください。一人息子です。
- 悪霊が取り憑くとこの子は突然叫び出します」。
- この後に続くこの父親の言葉は、子供の救いを切に願う言葉です。
- 「悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、
- さんざん苦しめてなかなか離れません」。
- 子供の苦しみに心を痛める父親の思いが伝わってきます。
- イエス様は、子供の救いを願う父の訴えを憐れみの心で聞かれたことでしょう。
- この出来事の中に自分の身をおく時、この出来事がリアルに迫ってきます。
- そして悪霊が追い出されるのを目撃するのです。
→そのように想像し、自分が目撃者になったと思うなら、
- そうすれば、私たちも神の偉大な力に圧倒されるのでしょうか。
- 私は圧倒されませんでした。
- しかし、色々な悩み、困難を抱える者として
- 私は神の偉大さを信じたいと思いました。
- 私たちが聖書を読むのは、信仰に生きようとするからです。
- 私たちも神の偉大さを信じる者として生きていきたい、
- この出来事はこのような願いを私たちに与えるのではないでしょうか。
- 「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、
- どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。
- あるいはこのようにも祈っています。
- 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、
- あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
- 心の目を開いてくださるように」。
→私たちは、心の目が開かれ、神の偉大な力を信じ、
- 神の力に頼り、神の力によって道が切り拓かれることを期待してよい、
- それは幸いなことではないでしょうか。
- 信仰とは、神の偉大な力に頼ることです。
- 信仰とは、神様のご支配があることを信じることです。
- わたしたちの苦しみを憐れみをもって受けとめ、
- 救ってくださる力ある神様を信じる、それが信仰です。
→ところで、この出来事には、心に引っかかるイエス様の言葉があります。
- 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。
→これは誰に向けられた言葉なのでしょうか。
- 群集に向けられた言葉なのか、弟子に向けられた言葉なのか。
- イエス様の時代に生きている人々に向けられた言葉なのでしょうか。
- 11章29節でイエス様はこうも語っています。
- 群集がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。
- 「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがる」。
- しるし、つまり奇跡を見ない限り信じない、奇跡を見せて欲しい、という人々のことを述べているのです。
- わたしはイエス様の「我慢しなければならないのか」は
- 弟子たちに向けられた言葉だと考えます。
- 「悪霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、
- できませんでした」というあの父親の言葉を聞いた時、
- イエス様が発した言葉です。
→9章の最初、イエス様は弟子たちにあらゆる悪霊に打ち勝ち、
- 病気を癒やす力をお授けになりました。
- そして弟子たちは村々を恵み、病気を癒やし、悪霊を追い出してきたのです。
- なのに、今、それができないでいるのです。
→イエス様は12人の弟子を選びました。
- 弟子たちを自分のそばにおき、いつも行動を共にしました。
- それは、将来、イエス様の働きを受け継いでもらうためでした。
- だからイエス様は12人を派遣し、福音を宣べ伝えさせ、病人を癒やすなど
- イエス様と同じ働きをさせました。
- 弟子たちを訓練したのです。
- でもこの場面で、弟子たちは悪霊を追い出せなかったのです。
- 弟子たちが思うように成長していない、嘆きの気持ちが
- 「いつまで我慢しなければならないのか」という言葉になったのだと思います。
- 弟子たちが、主イエスの弟子となるには、まだ時間がかかるのです。
→43節から読みます。
→人々が、そして弟子たちが神の偉大さに圧倒されている時、
- まさにその時に、イエス様は弟子たちに語るのです。
- 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。
- 人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。
→言葉は少ないですが、イエス様はご自分が苦しむこと、死ぬことを語られたのです。
- 神の偉大さを表したイエス様が死ぬというのです。
- 45節。「弟子たちはその言葉が分からなかった。
- 彼らには理解できないように隠されていたのである」。
→弟子たちが主イエスの十字架の死の意味を悟るのはまだ先のことです。
- 今はまだ、弟子たちは理解できないのは仕方がありません。
- いや、それどころか、神の偉大さを現したイエス様が苦しんで死ぬと言われたことに
- 弟子たちは、恐れ、戸惑いの中にいるのです。
→今日読んだ聖書の箇所は、神は偉大であるとのメッセージと、
→すぐ前の9章23節以下で、
- イエス様は信仰者がいかに生きるべきかを教えられました。
- 自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負いなさい、というのです。
- 神の偉大な力に期待して生きる信仰者の生き方と、
- 十字架を背負う信仰者の生き方が並べられているのです。
- この二つはどう調和するのでしょうか。
- 弟子たちは、この段階で、何も理解できないでいます。
- 私たちもまたイエスに従っていこうとする弟子です。
- 私たちも、この弟子たちのように、力が弱く、理解が乏しい者かも知れません。
- 自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負うなんて、
- なぜそんなことをしなければならないのか、理解できないでいるかも知れません。
→わたしたちには、イエス様の弟子たちと違うところがあります。
- わたしたちは、イエス様の十字架の死と復活についての知らせを聞いています。
- パウロは言います。
- 「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
- 即ちユダヤ人には、つまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
- ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。
- 「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。
- この祈りには続きがあります。
- 「神はこの力を働かせて、キリストを死者の中から復活させ」。
- 神の偉大な力は、イエスを死者の中から復活させたのです。
→イエス様の死には私たちの救いがあり、イエス様の復活にも私たちの救いがあるのです。
- わたしたちは、死んでこの世の生活を終えた後、神の国に復活することを教えられています。
- 神さまは、このことの予行演習をこの世でなさっておられます。
- イエス様が死んで復活したように、私たちもイエス様を信じ洗礼を受ける時、死と復活を与えられるのです。
- 生まれ変わるのです。
- 洗礼における生まれ変わり、それは罪人の私が死に、
- 神の子として私が生まれる、神の子に復活すること意味しています。
- 私たち、罪の支配から自由にされて、
- 神の子として、新しく生まれ変わる、復活するのです。
- 信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力、それは、私たちを生まれ変わらせる力として現れます。
- 神の大いなる力、偉大な力、それは信じる者を罪の汚れから清め、
- 神の子として生かすところに発揮されるのです。
- そして信じる者たちが互いに愛し合うようになるところに発揮されていくのです。
→日々十字架を背負うとは、日々、神のご支配の下に生きることです。
- 日々、神さまの力のもとに生きることです。
- 神の御心に生きること、神さまとの交わりに生きることです。
- そのために辛いことや苦しいことがあるかも知れませんが、それは喜んで受け入れるのです。
- このような歩みをするなら、あなたは神の偉大な力の中で生かされていることを知るでしょう。
- 神の偉大な力があなたを生かしてくださることを知るでしょう。
人々から、何と偉大な方かと賛美された神さま
私どももまた、あなたの偉大さを信じ、大いなるあなたの力を悟ることができるように導いてください。
私どもの心の目が開かれ、偉大なあなたに信頼を置き、
あなたの大いなる力に生かされることを願います。
助け導いてください。
あなたが大いなる神であることを信じることと、
信仰者がイエス・キリストに倣い、
日々十字架を背負うことが一つの信仰であることを教えてください。
主イエスを信じる信仰は、
神さまのご支配の中を喜んで生きる信仰であると教えてください。
そこにまことの幸いがあることを教えてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。