聖書 ルカ 10:1〜20
説教 天に名が記される
→教会には、教会員原簿と呼ばれる名簿があります。
- 洗礼を受けるとこの名簿に名前が書かれます。
- 他の教会からこの教会に移ってきた人の名も記されます。
- 洗礼を受ける、それは救われるということです。
- イエス・キリストを救い主と受け入れて洗礼を受けるからです。
- 神は私どもを救いに導きたいのです。
- 救いとは、滅びからの救いです。
- 滅びとはどういうことか、聖書は明確に語っていません。
- 死を恐れる、それは滅びがあることのしるしのように思えます。
- 人はなぜ死を恐れるのか。自分が滅びに向かっているからです。
→今日の聖書でイエス様は72人の弟子を遣わします。
- 「神の国はあなたがたに近づいた」と語るようにイエス様は命じます。
- 神の国とは、神様のご支配を意味します。
- あなたは神のご支配の中を生きることができます、何と幸いなことでしょうか。
- 弟子たちは、人々に語るのです。
- そして幸いなしるしを見せるのです。
- 病気で苦しんでいる人を癒やすのです。
- あなたを救う神があなたと共にいます、と伝えるのです。
→弟子たちは出かけたら、まず、どこかの家に入るように命じられます。
- 「この家に平和があるように」というように命じられます。
- その家の人が受け入れてくれたら、その家に泊まり、
- そこで出される食べ物を食べるのです。
- 泊めてもらった家がある町や村で、病人を癒やすのです。
- そして「神の国はあなたがたに近づいた」言うのです。
- しかし、「この家に平和があるように」と言っても、受け入れてくれない場合があります。
- 村全体、町全体が受け入れてくれない場合、そこを去ります。
- その時、「神の国は近づいたと知れ」と言い残しなさいとイエス様は命じます。
- 弟子たちが迎えられるにせよ、拒まれるにせよ、
- 神の国は近づいたというメッセージが届けられます。
- そして弟子たちを受け入れた場合、病気の癒やしが行われます。
- 弟子たちを受け入れると、神からの恵みが与えられるのです。
- あなたを救う神がおられるということが本当だと分かるのです。
- 弟子たちを受け入れない人には、そのことが分かりません。
- そして受け入れるか受け入れないか、大きな違いが生まれることになります。
→そしてイエス様は、罰について述べます。
- かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰ですむ。
- 「かの日」とはどんな日のことを言うのでしょうか。
- 聖書には時間についての独特の考えがあります。
- 神が世界を造った時に時間が始まり、
- 神が世界を完成する時に時間が終わるという考えです。
- 時間が終わる時を、終末の時、と言います。
- その時、神の国が完全な形で完成するというのです。
- この神の国は、イエス・キリストを救い主と信じた人が迎えられます。
- 弟子たちが神の国を宣べ伝え、これを受け入れる人が迎えられます。
- 受け入れない人はどうなるのでしょうか。
- この人々は滅びるというのが聖書の教えです。
→聖書が告げる救い、それは滅びからの救いです。
- 滅びからの救いを受け取らないものは、滅びの中に入ってしまいます。
- ソドムという町は、堕落した町でした。
- 不法が横行している町でした。
- その状態がひどかったので、神は天から火を降らせてソドムの町を滅ぼしました。
- イエス様の弟子たちを受け入れなかった町は、もっどひどい罰を受けるというのです。
→イエス様はさらに弟子たちに向けて言います。
- 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。これは町の名前です。
- これまでイエス様が活動してこられたガリラヤ地方の町です。
- これらの町の人々は、イエス様の活動、病人の癒やし、悪霊の追い出しなどを目撃したのです。
- 癒やしの恵みをいただいたのです。
- しかし、彼らは悔い改めなかったというのです。
- 悔い改めというのは、心が回転することです。
- 自分中心に生きてきた生き方を、神中心の生き方に変えるのです。
- 180度の生き方の転換です。
- なぜ神中心の生き方に変えるのでしょうか。
- なぜなら、病気や悪霊に取り憑かれての苦しみを神が取り除いたからです。
- 救いの神がおられるから、これからは神と共に生きるなら、
- 幸いが待っているのです。神の祝福が待っているからです。
- 神と共に生きる、それが祝福なのです。
- 神は招いているのです。
- わたしを信じて生きよ、わたしと共に生きよ、と。
- 神と共に歩まないなら、神なしに生きるなら、
- それは滅びに向かう歩みなのです。
→だから悔い改めない、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の人々は不幸なのです。
- 彼らには滅びが待っているからです。
→イエスは言います。
- 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者はわたしを遣わされた方を拒むのである」。
- イエス様を遣わした方、それは神です。
- 神はイエス様をこの世に遣わし、イエス様は弟子たちを遣わすのです。
- 今の時代、イエス様に遣わされた弟子に相当するのは牧師です。
- 牧師は礼拝で説教をします。弟子たちが神の国は近づいたと神の国を宣べ伝えたように、
- 牧師は礼拝で、イエス・キリスト、救い主を宣べ伝えます。
- そして聖書に基づく説教をします。
- この説教を聞く時、人の心が問われるのです。
- 神を信じて救われたらどうか、という招きを受けます。
- 神のご支配のもとに来て歩む時、豊かな恵みが与えられると聞かされます。
- そこで心を開いて受け入れるか否か、心が問われます。
- 聖書の語ることに耳を傾けるか否か、問われます。
- それは言い換えると神の語りかけに耳を傾けるか否かが問われるのです。
→何を聞くのか、注意しなさい。
- 人を救いに導く神の話を聞くのです。
- 滅びから人を救う神の話を聞くのです。
- 私はかつて信仰を持つ前に教会主催の伝道集会に行ったことがあります。
- わかりやすく神様のことを伝えることを目的とした集会です。
- そこで説教を聞いた感想はこうです。
- 「話がうますぎる。信じるだけで救われるなんて」。
- 「聞くに価しない」。
- わたしには聖書の話が愚かに見えたのです。
- 聖書は人間の罪からの救いという深い話をしているのです。
- 自分が罪人だと知らず、聖書の深みを知らず、
- 聖書の話をおろか、と決めつけたのです。
- 人は色々に理由をつけて、聖書が与えようとする救いを得ようとしないのです。
→イエス様が弟子たちに宣べ伝えさせたのは、神の国の福音です。
- 福音というのは素晴らしい知らせ、の意味です。
- この福音に耳と傾け続ける時、その素晴らしさを知るようになっていきます。
- そしてイエス・キリストを救い主と受け入れるようになっていきます。
- イエス・キリストを救い主と受け入れる人の名は、天に書き記されるとあります。
- 終末の時に、完全に実現する神の国の住民と認められるということです。
→弟子たちが神の国を宣べ伝え、イエス様のように悪霊を追い出せたことを喜んだ時、
- イエスは言いました。それよりも、天に名が記されていることを喜びなさい。
- 喜べと命じられて喜べるかと言われたら、喜べません。
- 喜びは生まれてくるものであって、命令されて喜ぶことはできません。
- でもイエス様は、喜びなさいと命じます。
- それは天に名が記されることがどれほどの喜びなのか、
- もっと耳を傾けて福音を聞きなさいというイエスの命令です。
- 神様が与えてくれる救い、救われて生きるということは私たちの思いを越える
- 素晴らしいものなのです。
→そう言うと、どれほど素晴らしいんだと質問する人もいると思います。
- 参考のために、私の場合についてお話しします。
- 人を愛することができるようになった。妻を愛し、子供を愛し、教会員を、教会を愛することができるようになった。
- 愛する人がいる。
- 人から愛される者となった。
- いつも希望をもてる。
- 信じるという、人間らしさに生きることができる。
- 死の恐れから解放されて心は平安になった。
- 使命に生きることができるようになった。
- 自分を受け入れることができるようになった。
- 自分の存在価値を確認できた。
- 思い煩いから自由になった。
- 聖書を生きる指針にすることができた。
- 日々の生活に喜びを見いだせるにようなった。
- 心の底にはいつも喜びがある。
- 信仰を共にする仲間がいる。
- 何よりも、神が共におられるという幸いをいただいた。
祈り
イエス・キリストをこの世にお遣わしになった父なる神様
あなたを崇めます。
あなたは私どもを滅びから救ってくださいました。
イエス様は、天に名が記されていることを喜びなさいと命じられました。
天に名が記され、救われて生きることがどんなに幸いなことであるのか、喜ぶことができますように。
あなたが救いを与える神、
恵みを、祝福を豊かに与えてえくださる神であると告白できますように
あなたこそ、まことの神さま、とあなたを栄光をたたえるものとなりますように。