受難週の聖書黙想です。今日はルカ福音書 22章66~71節を読みました。
最高法院での裁判の場面です。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と問われたイエス様は「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と語られました。このことが神を冒とくしたことと受け取られ、イエス様はローマ総督ピラトのもとに連れて行かれることになります。
イエス様を殺そうとする祭司長や律法学者たちがいます。彼らは神を信じているとされる人々です。しかも彼らは宗教指導者です。その彼らが神から遣わされたイエス様を信じようとはしないのです。なぜでしょうか。
人が神を信じる時、そこに枠を作ってしまい、その枠に入らないことは信じないことがあります。イエス様は彼らの枠におさまらない方でした。そして彼らはイエス様を理解しようとはしませんでした。特にイエス様の律法に対する考え方や行動は律法学者たちの枠に入りませんでした。
信仰者といえども枠を作りがちです。私は神さまをこう理解し、こう信じる、と枠をつくるのです。そして枠の中に入らないことは信じようとしないのです。キリスト教の教派、神学も時には「枠」になります。イエス様は枠の中に入るお方ではありません。
とはいえキリスト信仰は一定の枠を持ちます。たとえば三位一体を否定する信仰は拒否するという枠。イエス様が神であることを否定する立場は取らないという枠。キリストを信じる信仰とはどういうものであるのか、それは枠となります。礼拝で告白する使徒信条は一つの教理的な枠になります。枠は必要です。
しかし枠にとらわれすぎてはならないと思います。自分の枠を作って信ずべきことを信じない、信じてはならないことを信じる、そのようなことのないようにと願います。
何が真理であり、何を信ずべきなのか、信仰に生きるとはどういうことなのか、ひたすら聖書に聞き続けることの大切さを思います。
かつて私は教会で、聖書を思いめぐらし、聖書の教えを自分の生活に適用することを教えました。イエス様は聞いて行う人と聞いても行わない人のたとえを話されました。ヤコブの手紙には行いのない信仰は空しいと書かれています。御言葉の適用は聖書的であると私は考え、それを教えました。学びの集会を持ちました。参加する人もいれば参加しない人もいました。今まで自分は自分なりに聖書を読んできた。何でそのような読み方をしなければならないのか、そんな批判もありました。
新しいことを耳にした時は、聖書に照らし、聖書的なのかそうでないのか、そのような作業の労をとることは大事であると思います。私が今読んでいる本に、私がもっている枠に入らないことが書かれているのです。でもよく考えると聖書的に思えるのです。そして今朝の聖書を読んで、自分の「枠」について思いめぐらしました。