クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

間抜けな自分に気づく

 人というのは自分の間抜けさに気づかずにいて、ある時突然気づかされるということがあるのではないでしょうか。今日散歩している時に自分の間抜けさに気づかされました。

 私が祈り願っている一つのことがあります。パウロの祈りを模範とする祈りです。フィリピ信徒への手紙1章でパウロはこう書いています。

そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

 私はパウロに倣い、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」と祈っています。今日散歩している時、ふと思ったのです。私自身は誰を見て、キリストを崇めるようになったのか、と。誰かを見て、その信仰の姿に心打たれ、キリストを崇めるようになったことがあるのか、との思いになったのです。

 自分の歩みを振り返ってみて、ある人を見て、キリストを崇めるようになったという経験があるのか、このことを一度も考えたことがありませんでした。何と間の抜けたことか、と思いました。

 誰かを見てキリストを崇めるようになったことは私にはありません。今までに多くの牧師、信仰者に出会ってきましたが、キリストを崇めるように私に影響を与えた人は一人もいません。パウロを除いては。それなのにわが身を通して、キリストが崇められることを願うなんて、うぬぼれているのではないか、と思わされました。うぬぼれかもしれません。でも祈り続けるつもりです。

 パウロはこう書いています。私の好きな聖句です。

「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(コリント一11:1)。

 私たち信仰者は互いに励まし合う存在です。お互いに相手の優れたところを見倣い、共に向上し、信仰が成長したらいいなと思っています。それが教会であると思っています。私の歩みが誰かの参考になり、誰かの信仰の成長につながれば、うれしいです。相手より優れていると言っても一歩か二歩、前を行っていれば、いいのです。あまり先を歩んでいる人を追いかけるのは大変ですが、一歩か二歩なら、ついて行けます。

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